ハンター・S・トンプソン死去

http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200502210007.html
http://www.asahi.com/culture/enews/RTR200502210038.html
http://www.mtvjapan.com/cgi-bin/news/news.cgi?year=2005&month=02&day=22&no=3 

 死んだんだね・・・。自分の頭を打ち抜いて死んだんだ。
 記事にもあるように、ニュー・ジャーナリズムの旗手の一人だった。理知的なトム・ウルフとはおよそ正反対な破天荒で猥雑な文章。取材対象にもろに関わり、自らその渦中に身をおくルポルタージュの手法。客観取材を常とするジャーナリズムを真っ向から否定し、それでいてことの本質を抉り出す稀有なライターだった。
 この人の『ラスベガスをやっつけろ』を読んだ時には、正直ぶっとんだ。なんだこれは単なるヤク中の空騒ぎか的な冒険譚かと。しかし読み進めるうちにこれは自らを戯画化しながら、ドラッグ文化が蔓延したアメリカ社会の深遠をえぐっているんだと思った。まあ、大方の書評にあるとおりの傑作だとは思った。それでいてグイグイと読者をひっぱっていくスピード感あふれる文章はきわめてエンターテイメントでもあった。そしてトンプソン自身の抱える絶望感、虚無感がひたひたと伝わってもきた。
 それほど読み込んでもいないし、だいいち翻訳されているのはこの本とあと一冊たしか東京書籍から出たコラム集ぐらいだったんではないかと思う。僕がなぜこの人を知ったのかというと、20年も前のことになるだろうか、その頃一番愛読していたカート・ヴォネガットのコラム集『ヴォネガット、大いに語る』(今は亡きサンリオ文庫だ)の中でトンプソンへの言及があったことからだ。それでずっと気になっていて邦訳が出たら読んでみようと思っていた。そして1998年10月筑摩から出た『ラスヴェガス』を偶然、書店で見つけてすぐに飛びついたんだった。回顧談としていえばその頃は例のかまくらの出版社にいた時分だったから、たぶん島森書店あたりで買ったんじゃないか。
 そして今もういちどそのヴォネガットのコラムを再読した。それは例のハーパーズに寄稿した『ラスベガスをやっつけろ』の書評でタイトルは『ある政治的な病気』となっている。

ハンター・トンプソン博士の健康が心配である。心配してあげなければ悪い、とわたしは思う、彼はどうやらニュージャーナリスト仲間のなかでも、最も独創的に頭の狂った、傷つきやすい人物らしく、彼の記事の至るところに自分の健康について人をびっくりさせるような報告をまきちらしている。しかも、彼の病気は想像上のものではない。最近出たこの本のなかでも、ある医師の意見を紹介している−『その医者は、ぼくみたいにひどい不安症の患者は全然見たことがないという。彼の診断によると、ぼくは精神的にも、肉体的にも、感情的にも完全に虚脱寸前の状態にある』」
「もういちと言うが、彼を助けるために、われわれになにができるだろう。わたしはハンター・トンプソンを本でしか知らない。彼の著書は活気に富み、誠実で、価値のあるものだ。よく読むと、あまりにも醜悪で安っぽい現実が彼を殺しかけている、という内容である。」

 この本でくりひろげるトンプソンのグロテスクで品のない侮辱的な表現を弁護してヴォネガットは語る。

「いま思いつくのは、ニュージャーナリズムはキュービニズムの文学版ということだ。あらゆるルールが破られている。われわれは、修練を積んで熟成した画家がいまだかって描いたことのない絵を見せられ、その気違いじみた新しい絵のなかに、なぜか、なつかしき古い真実の新しい面が輝きだしているのを発見する。
 もっとむくつけな言いかたもできる。拷問を受けている人間がときどき示す態度に、あなたの目を向けてほしい。責め苦に喘ぐ人間があばれまくって、ほかの状況下では決して言いそうにないことをわめきたがる様子に、注意を向けてほしい。おなじように、ニュージャーナリストは、苦痛に喘ぎながら悲鳴をあげている庶民主義者にほかならないのだ。
 彼らは、アメリカ人が兄弟愛を持って正しくいきることは、容易であり、自然でもあると信じている。それがもし幻想であるとしても、その幻想こそ、ニュージャーナリストの心のなかでは人間の幸福の基準なのだ。その基準から少しでもそれると、傷つき、病に冒されるたものと見なされる。したがって、アメリカの現在の雰囲気は彼らにとって、オーウェルが描いたあの有名な拷問のようなものだ。犠牲者は両手を縛られ、頭を小さな檻のなかに入れられる。そのあと、腹ぺこのねずみがその檻に放たれるのだ。」

 「誤解のないように言っておくが、アメリカの雰囲気は現実にはそれほど恐ろしいものではない。わたしが言っているのはただ、われわれのなかには、ハンター・トンプソンのように、超高度の感受性を持った人がいるということである。その他のほとんどすべての人は、自分は元気であると思っている。すこぶる快調だと思っている。」

 「トンプソンの健康に関する事実だが、わたしはあちこちたずねて回った。みんなの言うところでは、彼は血色もよく強健であり、精神も常に健全であるように見えるとのこと。だが、彼のみてくれはドリアン・グレイの若々しい外貌みたいなものと考えたほうが、彼自身の期待に沿っているのかもしれない。きっと、彼の内面は、安っぽい政治屋どもによって醜く食い荒らされているのだ。」

 「その病気は致命的だ。治療法はなにひとつ知られていない。この気の毒な患者のためにわれわれが成しえることは、せいぜいその病気に彼の名を冠することぐらいだろう。アメリカ人を美に導くことは醜に導くこととおなじくらいたやすい。真理に導くことは広告宣伝に導くことと同じくらいたやすい。喜びに導くことは苦しみに導くことと同じくらいたやすいと思っている人々すべてを、いまこの時からハンター・トンプソン氏病の患者と呼ぶことにしよう。今朝のわたしは無事だ。それはわたしの場合、一過性のものである。今朝、わたしはハンター・トンプソン氏病にかかっていない。」

 なんともアイロニーに富んだ人を食った文章だ。それは極めてヴォネガット的だ。そして的確にトンプソンの本質を洞察している。しかもこの32年前の文章は、ある意味今日のトンプソンの死を予言してさえいる。
 それからの30年以上の歳月、トンプソンの超高度の感受性は、アメリカと世界の現実の中で傷つき、蝕まれ続けたのだろう。檻の中でねずみに食い散らかされ続けたのだ。悲鳴をあげのたうち回り、その挙句に彼は最後の力を振り絞って、自らの頭を射抜いたのだ。
 67歳。冥福を祈る