西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」 (3月22日)

 そしてその日の終着点、西洋美術館。

 

ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ|国立西洋美術館 (閲覧:2024年3月25日)

飯島由貴・遠藤麻衣らの抗議行動

 西洋美術館で初めての「現代美術」の企画展ということで注目していた。しかも内覧会でいきなり出展作家たちによる抗議活動も行われた。

飯山由貴がイスラエルのパレスチナ侵攻とスポンサーの川崎重工に抗議。国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」記者内覧で|美術手帖  (閲覧:2024年3月25日)

 西洋美術館のメインスポンサーである川崎重工の前身は、西洋美術館のコレクションの母体となった松方幸次郎が経営していた川崎造船所である。その川崎重工は、パレスチナ侵攻を行うイスラエルより武器(ドローン)を輸入し、利益を与えるとともに代理店として利益を享受している企業だと、今回の企画展に参加した飯山由貴は批判してビラを撒き、賛同者たちによるコールやダイインも実行した。

 また同じく企画展に参加した作家遠藤麻衣は、百瀬文は抗議のパフォーマンスを実施した。

飯山由貴がイスラエルのパレスチナ侵攻とスポンサーの川崎重工に抗議。国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」記者内覧で|美術手帖 (閲覧:2024年3月25日)

国立西洋美術館の館内ロビーでアーティストの遠藤麻衣と百瀬文が川崎重工に対する抗議パフォーマンスを実施|美術手帖 (閲覧:2024年3月25日)

 そしてこのアーティストたちによる抗議行動に対して、公安警察が美術館内に入り、作家のパフォーマンスを監視したことも報じられた。

出品作家、ガザ侵攻に抗議活動 国立西洋美術館、警察が監視 | 毎日新聞

(閲覧:2024年3月25日)

 この公安警察の美術館への立ち入りについて、西洋美術館は警察に要請をしていない。おそらく何らかの形で情報を得ていた警察側が、抗議行動が行われたことに即座に反応したということなのだろう。

 ようは美術館であれ、表現者はすべて公権力の監視対象であり、美術館という表現の場も監視されているということ可視化されたということなのだろう。そしてもう一つガザへのイスラエルの侵攻とジェノサイドともいわれる無差別攻撃に対して、表現者たちが声を上げたことは大きな意義があると自分は思っている。さらにいえば表現者たちは炭鉱のカナリアなのだということを改めて思ったりもした。

 そうした事前の情報もありぜひ観てみたい企画展と思ってはいた。

展覧会の企図について

 今回の展覧会を企画した西洋美術館主任研究員の新藤淳氏は企図についてこうパンフレットで記しているので一部抜粋する。

国立西洋美術館一そこは基本的に、遠き異邦の芸術家たちが残した過去の作品群だけが集まっている場です。それらは死者の所産であり、生きているアーティストらのものではありません。この美術館にはしたがって、いわゆる「現代美術」は存在しません。しかしこのたび、そんな国立西洋美術館へと、こんにちの日本で活動する実験的なアーティストたちの作品をはじめて大々的に招き入れます。

そうするのには理由があります。国立西洋美術館の母体となった松方コレクションを築いた松方幸次郎は、みずからが西洋において蒐集した絵画などが、未来の芸術家の制作活動に資することを望んでいたといえます。また、戦後に国立西洋美術館の創設に協力した当時の美術家連盟会長、安井太郎のような画家も、松方コレクションの「恩恵を受ける」のは誰よりも自分たちアーティストであるとの想いを表明していました。これらの記憶を紐解くなら、国立西洋美術館はじつのところ、未知なる未来を切り拓くアーティストたちに刺載を与えるという可能性を託されながらに建ったと考えることができます。
けれども、国立西洋美術館がじっさいにそうした空間たりえてきたのかどうかは、いまだ問われていません。

 「松方幸次郎が望んでいたという未来の芸術家の制作活動に資する」という思い。その虚妄性とともに、当時の軍需産業の経営者であり、東洋の成金としてヨーロッパで美術品を買い漁った松方への批判的な眼差しを飯山由貴は自らのインスタレーションの中で俎上に載せていたりする。

 本来的には西洋美術館という器とそこに収蔵される西洋美術の作品群から、現代のアーティストたちはどのようなインスピレーションを得て、どのようなモチーフ化して新たな作品群を生み出すか、そういうことがひょっとしたら期待されていたのかもしれない。でもそれはちょっと期待外れだったかもしれない。

 アーティストたちは西洋美術館というある種の国家的権威、さらにはそこに収蔵される西洋古典美術という権威に対する批判的アプローチしてみたり、対象化、相対化、客体化、を図ってみたりしているのだろう。それは造形芸術として提示されものもあり、パフォーマンであったり、あるいは引用であったり、またさらには思考実験であったりと千差万別でもあった。

 なんとなく感じられたのは、造形表現よりもテキストを積み重ねることによって、西洋美術館という対象とその何重にも積み重ねられたさまざまなイメージを剥ぐような試み。それらは失敗とはいわないけれど、けっして成功した試みとはいえなかったかもしれない。

 西洋美術館も現代芸術のアーティストに門戸を開き、包容力を示そうとした。でも美術館の思惑とはちょっと異なる位相に連なる作品も多かったのかもしれない。

 美術館側もアーティストの側も、どこかで「あれ、こんなはずではないんだが」と感じあっているような、そんなギャップが見え隠れしていたような気がしてならない。互いに過度な気負いがあり、それがかみ合わことなく展覧会が始まってしまったような。

 新藤氏の企図はこのように続く。

ともあれ、ある程度は予想していたこととはいえ、展覧会の準備を進めながらに気づかされるのは、過去の芸術作品のみを所蔵する国立西洋美術館は、いまを生きる気鋭のアーティストたちがかならずしも好んで訪れるところではない一例外は少なからずいらっしゃるとしても一という事実です。ゆえにこの展覧会の課題は、その距離を埋めることでもあります。あるいは、国立西洋美術館やそのコレクションとあらためて向きあっていただくなかから、アーティストのみなさんにあらたになにかを考えていただく契機をつくること一それが本展の狙いです。結果として今回の展覧会では、彼ら一彼女らから国立西洋美術館にたいして、さまざまに批判的な問いが投げかけられることにもなるでしょう。美術館そのものを多角的に問題化することが、本展の企図にほかなりません。

 展覧会の課題は、「西洋美術館と気鋭のアーティストたちの距離をうずめることにある」。そして「あらたななにかを考えていただく契機をつくる」こと。それは成功していたかどうかというと微妙なようにも感じられた。あえていえばアーティストたちは、美術館との距離について考えそれをうずめるのではなく、その「みぞ」そのものを問題意識化したのではないかと、そんなことを考えた。

 そしてあらたな何かよりも、現在体制、あるいは権威としての「国立美術館」、さらにはもう一方の絶対的な美術的権威でもある「西洋美術」そのものに対しての意見陳述、そんな作品が散見したようにも思えた。

 自分自身、考えがよくまとまっていない部分は間違いくある。そして展示作品についていえば、情報量が非常に多く、多角的かつ多種多様でもある。逆に言えばトータライズされた部分、企画展としてのまとまりはまったくないに等しい。悪くいえば参加作家が好き勝手に西洋美術館にアプローチしてみました的な部分もあるかもしれない。それでも「美術館そのものを多角的に問題化する」という企図からは大きなズレはないということなのかもしれない。でも間違いなく、難解とはいわないけれど、判りにくい、受容しにくい企画展でもあるとは思った。

 ただ一方で、展覧会というものは、あるいは芸術作品というものは、面白いと感じればいいのかもしれないと割り切ってみれば、散漫で難解とも思える作品群の中でも、これはちょっと面白いというように、受容のレベルを下げてみればそれでいいのかもしれない。

 飯山由貴や田中功起のテキストは難解で「ちょっと何いってるかわからない」みたいにスルーしても、小田原のどかの転倒彫刻はちょっと面白いとか、そういう見方でもいいのかもしれない。バリ島の藤田嗣治はいくらなんでもとか、まさかの西洋美術館での高尚ストリップがとか、そういう部分でもいいと思ったりもした。

気になった作家たち

小沢剛

 藤田嗣治を日本人の画家としてよりも西洋絵画におけるエコール・ド・パリ派の画家の一人として扱っている。そのうえで戦争協力への批判からフランスに帰化しパリを拠点にした藤田嗣治が、パリではなくバリに移住していたらという「駄洒落じゃないか」と突っ込みたくなるような歴史のIFから「帰ってきたペインターF」シリーズをみせてくれる。面白いがやっぱり「駄洒落じゃないか」と突っ込みたくなる。

 

 
小田原のどか

 地震大国である日本の美術館において、彫刻作品の転倒はあり得る現実である。事実、関東大震災の時に上野の日展会場では、展示してあった彫刻作品が軒並み転倒して粉々になったともいう。地震の脅威にさらされる日本においての彫刻の存在を、小田原のどかはロダン作品を「転倒」させて展示する。

 

日本における彫刻という存在を課題化し、近代日本のねじれを指摘し続けた小田原は、西洋美術館を象徴する存在のひとつであるオーギュスト・ロダンの彫刻を、赤い絨毯の上に「転倒」させて展示。また、古くから供養のために建てられながらも地震による倒壊も多く見られる五輪塔、そして部落解放運動のなかで「水平社宣言」を起草し、のちに獄中で転向した西光万吉の日本画をともに展示した。いずれも「転倒」や「転向」を含意しており、これらが緊張感のある関係をもって配置されることで、第二次世界大戦を経て対米追従した日本、震災の脅威にさらされ続ける日本、そしてそのなかで育まれた日本の美術が表れている。

 

 

 さらに「転倒」から「転向」へと思考実験を積み重ね(駄洒落じゃないのか)、部落解放運動のなかで「水平社宣言」を起草し、のちに獄中で転向した西光万吉の日本画を展示し、転向論についてのテキストを転じする。

 「転向」については判断保留だが、普通に転がったロダンは面白く感じられた。

飯山由貴

 内覧会での抗議声明のように、もっとも先鋭的かつ政治的なアプローチをとった飯山は松方コレクション(複製?)とともに大量の手書きテキストを並置するインスタレーションを展示した。そこでは松方幸次郎と川崎造船所軍需産業としての実相を可視化させたり、松方が若き日本の芸術家のたちのためにとコレクションした西洋美術が、戦争プロパガンダとしての戦争記録画に繋がっていったのではないかという問いなど、問題意識化の舌鋒は鋭い。

 

 

 

この島が帝国であった時期、西洋から輸入された技術としての油彩画、西洋画と国粋主義思想と軍事中心主義が癒着して、様式としては美術作品でありプロバガンダでもある大量の作品が産み出された。
松方コレクションの作品は、のちに戦争画・作戦記録画(アジア太平洋戦争期に陸海軍の委嘱で制作された公式の戦争絵画群)と呼ばれるそれらの美術史と近代史に特有の文脈を持つ一連の絵画に影響はあったのだろうか。

歴史画は歴史的事実を視覚化したものではない。フィクションとしての歴史に具体的なイメージを付与して現実のごとく見せるからくりだ。
西郷隆盛の顔は、さきののべたようにキオッソーネが西郷徒道や大山巌の顔を参考にして作り出したものだが、そうと知ってはいても、このお雇い外国人んお創造した顔をはなれて、西郷という人物像を思い浮かべることはむずかしい。
イメージのしみはしぶとくこびりつき、用意にはおとしきれない。

 手書き文字は読みにくく、しかもびっしりと書かれている。しかしその内容は興味深くついつい引き込まれて読んでしまう。

田中功起

 田中功起は作品の展示ではなく、西洋美術館への「提案」をテキスト化して提示した。その中には作品展示での高さに言及し、子どもや車椅子ユーザーにとっては常に見上げるような展示になっていることを提起していた。

美術館へのプロポーザル1:

作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする西洋美術館の常設展示室には多くの絵画が展示されている。下見のために展示室に行くと、多くの観客に交じって車椅子の観客がいることに気づいた。そのひとは、テイントレット(ダヴィデを装った若い男の肖像)(1555~60年頃)を見上げていた。車椅子の位置からするとほとんどの絵画の展示位置は高すぎるように感じた。すべての絵画が車椅子と子どもの目線に合わせて低い位置に展示されている美術館を想像してみる。

 田中はこうした視点をもったのは、自らが子どもを育てるにようになり、ベビーカー押しているなかでの気づきだとしていた。

 こうした田中の提起に対して西洋美術館は常設展示で実験的に数点の絵を車椅子ユーザーや子どもの視線に合わせて低く展示してみせている。今回は一人で来たので、健常者の自分からするとずいぶんと観にくい展示だが、車椅子利用者の妻がいたらどんな反応を示しただろうか。

 

 

遠藤麻衣

 白いカーテンで仕切られた部屋に入ると怪しげな回転ベッドが回っている。そのなかほどは盛り上がっていて、何かが横たわっているようにも見える。そして正面のスクリーンでは館内で撮影されたと思わしきストリップの映像が流れる。腕まである白い手袋をした裸体の女性は、その腕を蛇のように身体に這わす。ちょうど手の部分には目がついていてまさしく蛇である。そしてもう一人のダンサーが現れて二人は絡み合う。

 美術館の中でこうしたストリップ、それも高尚なストリップを見ていると気恥しい部分もある。二人のダンサーは鍛え上げれた美しい姿態で絡み合う。あとで確認すると一人は現役ストリッパーの宇佐美なつで、もう一人が遠藤麻衣だという。

 壁にはエドワルド・ムンクリトグラフが展示してある。これは人と動物の異種交配を描いた《アルファとオメガ》という作品で、遠藤と宇佐美のパフォーマンスはここからインスピレーションを得ているという。

 ストリップ、あるいはソフトなAVといってしまえばそれまでだが、いやらしさや煽情的な部分はない。どちらかといえばフェミニズム的な要素が濃く、少なくとも男女関係なく観ることができる。ただしヘアヌードを含めた表現であるためゾーニングが図られている。HPにも以下のような注意がなされている。

本展には一部、芸術上の目的のため性的な表現を含む作品が展示されています。このような作品を不快に感じる方やお子様をお連れの方は、入場に際して事前にご了承頂きますようお願い致します。

 西洋美術館、とくに入口の部分や常設展示の入り口のロダン作品が置かれたスペースでの二人の女性が絡み合うパフォーマンスは、ある意味で西洋美術館の包容力みたいなものが感じられた。二人のパフォーマンスも芸術性は高く、最初に高尚なストリップと称したが鑑賞に堪える質を有している。しいていえば音楽がどこか安っぽい感じで、これはまさにソフトなAV、ストリップ小屋のBGM的である。多分、これは狙っているのかもしれないが、せっかく西洋美術館でのストリップなので荘厳なクラシックでも使えばいいのにと思ったりもした。

 どんな音楽がいいか。月並みにいえばバッハの無伴奏チェロなんかがいいかもと、俗人の自分は思ったりもした。

 

 
パープルーム

 梅津庸一が主催するグループによる作品空間。ラファエル・コランやピエール・ボナールらの作品から想を得た作品が、パッチワークのような空間の中に展示されている。ボナールはまさしく西洋美術館の所蔵品だが、コランの《フロレアル》って西洋美術館持っていたっけと、ちょっと記憶にないなと思いよく見てみると、《フロレアル》は藝大美術館から貸し出しのようだった。

 
坂本夏子

 初めて知る作家だ。1983年生。抽象画、グリッド、点描などによる作品だが、不思議と奥行き感というか立体感がある。多分、狙っているのだろうがそのへんが特に面白く感じた。競作もあり同時に展示してある梅津庸一や杉戸洋の作品がどこか平面的なので、その差異みたいなものが特に面白く感じられた。個人的にはこの作家の作品が今回一番心に残ったかもしれない。

 

《Tiles》 坂本夏子 2006年 油彩/カンヴァス 個人蔵 

《秋(密室)》 坂本夏子 2014年 油彩/カンヴァス 高橋健太郎コレクション

《階段》 坂本夏子 2016年 油彩/カンヴァス 国立国際美術館

 

都内周遊 (3月22日)

 胃カメラのんだ後、さてとどうするかとなる。もしもポリーブなどで組織をとることがあったら、その日は酒が飲めないということだったのだが、それもない。無罪放免だからといっていきなり昼酒というのもなんだし、それほど無頼でもない。実際のところ最近はとんと昼酒とかもしない。

 いつものようにお茶の水丸善で少し時間をつぶす。これも何度も書いているけれど、最近は本屋に入ってもなにも買わないで出ることが多い。今回もそうだった。

 昔は、本屋に入れば何かしら本か雑誌を買っていた。まあそれが本屋への礼儀でもあるし、とりあえず何か読みたい、読んでみようかなと好奇心をそそるものがあった。今はそれが皆無に等しい。

 プロフィールに子どもの頃から本屋が遊び場と書いている。実際、小学生くらいの頃から毎日にように本屋に通った。大書店にいけば何時間でも過ごすことができた。読んでみたい本、今度買いたい本、いつか読みたい本、そういうのが沢山あった。本棚を上から順に眺めていれば時を忘れることができた。

 本屋好きが高じて、本の仕事についた。以来40年、とにかくなんらかの形で本に接する仕事を続けてきた。そして本の業界自体が大きく揺らぎ、商売として成立しなくなることが明確になった頃に、仕事をリタイアした。

 多分その頃からだろうか、本屋にあまり足を運ばなくなり、行っても手ぶらで出てくるようになった。

 

聖橋

 丸善を出てこれもいつものように聖橋を渡る。

  聖橋の上からお茶の水駅を見下ろしてみる。ちょうど出てきた丸の内線とお茶の水駅に止まる中央線のツーショットを撮った。別に鉄ちゃんでもなんでもないが、なんとなく嬉しい。昔、交通図鑑みたいな本には必ず、トンネルから出てくる丸の内線と中央線か総武線がクロスする絵が載っていたのを思い出した。

 

湯島聖堂

 道路を横切って久しぶりに湯島聖堂に行ってみる。徳川綱吉によって建てられた孔子廟。幕府直轄の学問所である。林大学頭とかそんな文字が頭の中をよぎる。幕府の公式の学問が朱子学だったか。

湯島聖堂 - Wikipedia

神田明神 

 次に向かったのは神田明神。ここを訪れるのもずいぶんと久しぶりだ。

 

 

 

 神田明神といえば甘酒だったっけ。まあいいか。それから新宮本公園を通って新妻恋坂に出て少し進んで中央通りにぶつかったところで左折。たしかそのまま行けば池之端に出るはずだと勘を働かす。実際のところまさしくピンポンである。

 前日の6時過ぎからなにも口に入れていないのでかなり腹は減っているはずなのだが、さして空腹感がない。年を取るとなにもかもがどうでもよくなるようで、食事をとるのも億劫になるのかもしれない。そのまま池之端を少し歩くと横山大観記念館に着く。前回、このへんを歩いたときは月曜日で休みだったので入ってみることにする。

横山大観記念館

公益財団法人 横山大観記念館 - YokoyamaTaikan Memorial Hall

横山大観記念館 - Wikipedia

  五浦の住居が消失した1908年、東京に戻った大観が建てた住居で、亡くなる1958年まで住んでいた家を改築した美術館である。現存する建物自体は1954年に建て替えられたものらしい。

 この家で大観は毎朝5時に起床。すぐに風呂に入り、それから二階にある画室に入って、筆をもつこともなく思索にふける。8時少し前に階下に降りて朝食。その後は新聞を読んだり、手紙に目を通したりして過ごし、10時に再び二階の画室に向かう。興にのると昼食をとることもなく画業に励み、夕刻5時頃に仕事をやめて階下に降りる。

 大観は自然光の中でしか絵を描かず、夜、電球のもとのでは仕事をしなかった。夕食後は囲炉裏のある第二客間「鉦鼓洞」に座り、大好きな酒を嗜んだ。

 1階の客間には《梅図》の習作が展示してあり至近から鑑賞できる。完成品は香淳皇后昭和天皇の皇后)の父、久邇宮邦彦王の邸宅に飾られたものだという。記念館にある作品が習作となっているのかについて、係の人が説明していたが、扇と扇を並べたところ松の枝にずれがあったからなのだとか。いわれてみれば確かにずれていた。

 

 

 

 大観記念館の入館料は800円。近代日本絵画のチャンピオンともいうべき大家を偲ぶという意味ではまあ普通かなと思う。たまに寄ってみるのもいいかなと思う。

不忍とアメ横周遊

 大観記念館を出てから道路を渡って不忍池のぐるりを巡る。穏やかな午後という感じだろうか。

 

 

 不忍池には水鳥もたくさんいる。しかも慣れているのかなかなか逃げない。

 柵の上に止まったカモメも全然逃げる様子がない。

これはカモメ?

こっちは多分ユリカモメかスグロカモメ

こっちはキンクロハジロ? 目つきが悪いな

 不忍池を半周してから、そろそろ遅めの昼食をと思いアメ横に向かう。いつも前を通るだけの摩利支天にも寄って参拝してみる。祈るのは毎回同じで、妻と子どもの健康。

 

 アメ横はウィークデイでもかなりの人混み。やっぱり外国人が多いみたい。さてさてどこへ入ろうかとうろうろと歩き、ガードをくぐって反対側に。こっちは完全な飲み屋街だけど、昼からけっこう盛況だ。とりあえず安めで一人で入れそうなところを見つけてガソリンを入れることにした。

 

 小1時間、生2杯、ハイボール1杯、つまみ3品でほろ酔い。とりあえず胃の健康を祝してみる。それから上野の山へと向かった。

 

 

東京富士美術館「源氏物語 THE TALE OF GENJI」 (3月21日)

 今日で終幕となった東京富士美術館源氏物語 THE TALE OF GENJI ─「源氏文化」の拡がり 絵画、工芸から現代アートまで─」をぎりぎりセーフのタイミングで行ってきた。

 

 本企画展は、源氏物語の場面を絵画化した「源氏絵」を中心として、『源氏物語』や紫式部にまつわる美術、工芸、文学作品を紹介する大きな展覧会。その目的について企画展の監修者稲本万里子氏は以下ように綴っている。

  • 日本美術のなかでもっとも多く、長きにわたって絵画化されてきた物語は『源氏物語』である。
  • 平安時代以来、多くの絵師によって、絵巻、冊子、扇、色紙、屛風などに描かれてきた作品は源氏絵とし定着している。
  • これまでの美術史研究において、研究対象として重きをおかれていたのは、仏教絵画や城郭建築の障壁画である。それに対して源氏絵を含む物語絵は、女子どもの弄ぶもの、取るに足らないもの、研究に値しないものとされてきた。
  • しかし源氏絵は、天皇家や公家、武家、あるいは寺院の僧侶たちの私的な空間を彩る絵であったため、その私的な生活を知るために欠くことのできない作品でもある。さらに源氏絵は、やまと絵系の土佐派や住吉派だけでなく、漢画系の狩野派や岩佐派の絵師も手掛けているなど、流派を超えた同時代の潮流や、時代を超えた流派ごとの様式展開を知るためにも重要。

 さらに稲本氏は『源氏物語』を享受し再生した作品群や、『源氏物語』を享受し再生する営為を源氏文化と名付け、4つの点から研究を進めている。

  1. 源氏絵を『源氏物語』から派生した文学作品、翻訳作品、源氏能や宝塚歌劇、映画、漫画と同じく派生作品の一環としてとらえ、俯瞰的な視点から派生作品との関係性を探る。
  2. 源氏物語』以前の物語や物語絵、東アジア、西アジア、日本の物語絵との比較を行う。
  3. 美術史学、建築史学、日本史学、日本文学、情報学を専門にする研究者が、源氏絵研究領域、派生作品研究領域、比較源流研究領域の三領域に別れ、暗黙知を共有するまで対話を積み重ね、協働して研究を進めることで、個々人の研究を超えた研究成果を創発する。
  4. 源氏文化にかんするプラットフォームとして源氏文化ポータルを構築する。

 それらの研究成果、あるいは研究の途中経過として本企画展は位置付けられている。

 いやいや、NHK大河ドラマとのタイアップ、あるいは便乗企画的なものと高を括っていたのだが、非常に内容の濃い企画展だった。この美術展、他館や個人所蔵品等の貸し出しもあり、そのまま地方巡業という訳にはいかないのだろうが、富士美だけで終わってしまうのは惜しいと思ったりもした。

 さらにいえば、もっと早くに観に来るべきだったかなと思ったりもした。さすがに開館40周年記念と銘打っただけある充実した企画展で、3時頃に行ったのだけど、時間が足りないなと思った。終わってしまったのがとっても残念。

 企画展は4部構成になっている。

第1部 『源氏物語』とその時代

第2部 あらすじでたどる『源氏物語』の絵画

第3部 『源氏物語』の名品

第4部 近代における『源氏物語

エピローグ 現代によみがえる『源氏物語

 ウィークデイの午後だったけれど、予想以上に混んでいた。例によって宗教団体の集まりでもあったのかとでも思ったが、いやいやそうではなく源氏物語好きの方々、美術愛好家が多数来館されていた模様。さらにいえば春休みで若い学生さんらしき方も多数。やっぱり会期末ということもあったのだろうか。

 そんな中で、ちょっと困ったなと思ったのは、第2部の「あらすじでたどる『源氏物語』」の展示について。ガラスケース内の下部に絵巻物が展示してあり、正面には各巻のあらすじがパネル展示してある。みんなそのあらすじを読んでいるのでちっとも進まない。『源氏物語』の大まかなあらすじは知っていても、各巻それぞれとなるとまあ普通はよく知らない。なのであらすじ読んで、展示してある絵巻を観て、またあらすじに戻ってみたいな感じになる。

 さすがにこれはシンドイと思い、列から離れて他の展示に行った。別行動とっていた妻はというと車椅子なので、ずっと列に並ばなくてはならない。途中で戻って他のとこを観ようということにした。

 あと、この企画展では音声ガイドはなくて、持っているスマホで専用サイトにアクセスして解説を聴けるようになっているのだけど、イヤホン持っていない人が多数。みんなそのままスマホを耳にして聴いてる。まあ小さく音がこぼれるくらいならいいのだけど、音大きいままにして聴いてるおばさんとかもいた。まだまだタブレット文化の夜明けは遠いのかもしれない。

 自分は持っていたBluetoothイヤホンで妻がスマホで聴けるようにしてあげた。自分自身はほとんど音声ガイドを使ったことがない。でも妻も途中で操作が判らなくなったり、挙句は片方のイヤホンをどこかに落としたりとか(後で見つけることができた)。

 スマホタブレットを音声ガイド代わりにするというのはとてもいいけれど、なかなかこれは敷居が高い部分があるかもしれない。モノとヒトとのネットワークとかANT理論とか訳のわからんことをちょっと思ったりもした。

 

 充実した内容ということで図録購入をどうしようか考えた。図録本体と「あらすじでたどる『源氏物語』の絵画」の二分冊セットで3500円。しばし悩んだがこれは買っといたほうがいいかなと、清水の舞台的に購入した。

 

 以下気になった作品をいくつか。

 《紫式部図》 尾形光琳 18世紀 軸装 MOA美術館蔵

 

《秋好中宮図》 尾形光琳 18世紀 軸装 MOA美術館蔵

 

源氏物語図屏風》部分 狩野晴川院養信 1826年 屛風装 香川・法然寺蔵 重要文化財 

 

《住吉詣》 松岡映丘 軸装 1921年頃 二階堂美術館蔵

 

《源氏若柴》 安田靫彦 1933年 軸装 茨城県近代美術館蔵

 

《源氏帚木》 安田靫彦 1956年 軸装 二階堂美術館蔵

 

 《宇治の宮の姫君たち》 松岡映丘 1912年 屛風装 姫路市立美術館

 姫路市立美術館は一度行ったことがあるがこの作品は観ていない。こんな素晴らしい作品を持っていたとは。個人的にはこの絵を観ることができただけでこの企画展に来た甲斐があった。

 やまと絵は、土佐派、住吉派から江戸時代の琳派作品などや絵巻物などが、目玉かもしれないが、近代日本画の中での源氏物語の受容だけに限ってもかなり大がかりな企画展ができそうな気がする。本展でも松岡映丘や安田靫彦以外にも上村松園の作品なども展示してあったが、例えば伊勢の伊藤小坡美術館にも小坡《秋好中宮》など素晴らしい作品もある。せっかく大河ドラマ『光る君へ』で紫式部と『源氏物語』に注目が集まっているので、そういう切り口もあっていいかもしれない。

 そういえば洋画で源氏をモチーフにした作品ってあるのかな。と、今思いついたが。

MOA美術館-UKIYO-E 江戸の美人画 (3月16日)

 14日木曜日に寄ろうと思ったのだが、MOA美術館は木曜日が定休のようだ。なので小旅行最終日に寄ることにした。しかし車で行くとここはけっこう難儀な道を通る。険しい坂道を登って正門付近に着くと、そこで案内係に駐車場を案内される。それもまずQRコードを見せられ、それをスマホでスキャンすると地図が表示される。まあそれは見ないで看板を頼りに狭い坂道を登る。ほとんどぽつんと一軒家でよくある狭い山道みたいな感じだ。

 なんどもつづら折りの道を行くとようやく開けてきてMOA美術館の裏側に出る。そういえば数年前の熱海で土石流が起きたときには、そのすぐ後に行ったことがあったけどMOA美術館の駐車場に消防車やパトカーが何台も止まっていたっけ。

 伊豆にはここのところよく来ている。去年は3~4回来ただろうか。伊東の保養所がバリアフリー的に充実していること、ベッド仕様や家族風呂などもあるから。抽選申し込みでもウィークデイだとけっこうとりやすいとかもある。なので小旅行の頻度としては圧倒的に多い。

 となると伊豆の美術館に行くことが多いはずなのだが、この雑記の記録を調べると仕事を辞めてからまだ二度しか訪れていない。やっぱりあの坂道か、あるいはバックの宗教が気になるのか。いやそれはないな。富士美には数えきれないくらい行ってるし、まあ単なる巡り合わせか。まあしいていえば熱海はなんとなく通過するところという感じがある。そして今回思い知ったことだが、崖にへばりついた町だから。

MOA美術館「開館40周年記念名品展 第1部」 (2月25日) - トムジィの日常雑記

MOA美術館『没後80年 竹内栖鳳ー躍動する生命ー - トムジィの日常雑記

 

MOA美術館-UKIYO-E 江戸の美人画

 

 

 MOA美術館コレクションによる肉筆及び版画の美人画を中心とした浮世絵を展観する企画展。重要文化財四点を含む70点弱が展示されている。いっぱい持ってるんだなと改めて思う。

 しかしMOA美術館、土曜日ということもあるけどえらく盛況。これまで来たなかで一番賑わっている。とにかく展示作品を観るためには列にならんで観る必要がある。その列の進むのがえらくゆっくりで。まるでトーハクの企画展かと思えるくらいに鑑賞客が多い。ただトーハクとは違うのは客層。あっちはだいたい高齢者が多いけど、MOAはとにかく若い子たちが多い。なんていうか大学生の修学旅行の団体さんが来ていますみたいな感じ。

 ということで列には並ばず、空いてそうなところを飛ばし飛ばしに観ることにしました。

《誰ヶ袖図屏風》

《誰ヶ袖図屏風》  17世紀

美しい衣裳によって着る美人を連想するとの発想から、衣裳だけを描く「誰ヶ袖」屏風と呼ばれる風俗画が生まれた。衣桁に小袖・打掛・袴や香袋などを描き、背景を金と銀の片身替りにし、装飾効果をあげている。(解説キャプションより)

 これがあの名高い《誰ケ袖図》か。というかこの作品は、このオリジナルを観るよりも先に京都で福田美蘭のパロディを観ているので、なんというやっとオリジナルを実見したみたいなちょっとした感慨があったりする。

 福田美蘭のやつはこれなんだけどね。いつものごとく著作権ぎりぎりを攻めてきている。これ観ているので、いつかは本歌の方を観てみたいとは思っていた。

《誰ヶ袖図》 (福田美蘭) 2015年 京都市美術館蔵 
《花見鷹狩図屏風》
《花見鷹狩図屏風》 (伝 雲谷等顔)  桃山時代 16世紀

 重要文化財である。

向かって左隻には「武家の鷹狩」を描き、右隻には「庶民の花見」を描く遊楽図屏風の一つである。両隻ともに水墨を基調として表現しているが、花見図が金箔や色彩を多く用い華やかさを出しているのに対し、鷹狩図はあくまで水墨画的であり、主題・色彩ともに左右対照の妙を見せている。慶長期(1596~1615)に描かれたこの種の初期風俗画の多くは、狩野(かのう)派の画人の手になるものであったのに対して、本図は、樹木や岩組に見られる筆法や風景構成から、雲谷派の祖、雲谷等顔(1547~1618)の筆とされる点で注目に値する。等顔は、雪舟(せっしゅう)の画風に傾倒して個性的な水墨画形式を創造し、雲谷派の基礎を築き上げた桃山時代の代表的画家である。

https://www.moaart.or.jp/?collections=062

《調髪美人図》

《調髪美人図》 (鳥居清信) 17世紀

 鳥居清信は17世紀から18世紀にかけて活躍した鳥居派の祖。見ての通り、この頃はまだ浮世絵の美人画スタイルともいうべき面長細面に切れ長の目は確立していない。どちらかといえば写実性とやまと絵的なふっくらとした面容だ。浮世絵は次第に商品化が進むにつれてキャラ化ともいうべきスタイルが定着していく。

 以前どこかで浮世絵美人画は今のアニメの萌え絵と一緒みたいなことを書かれる方のブログを読んだことがあって、なるほどと思ったことがある。アニメの萌え絵もみんなキラキラして目の大きな同じ顔立ちのスタイル。浮世絵もあれと同じなんだということ。そういう意味でいえば平安時代のやまと絵の引き目かぎ鼻も、あれが当時の美人のキャラだったということで、美意識の変遷みたいなことなんでしょう。多分これについえはきっと論文とかいくつも出ているような気がする。

《立美人図》

《立美人図》 (松野親信) 江戸時代 18世紀

 松野親信は懐月堂風の画風とは解説キャプションにある。懐月堂や同じころの宮川長春を祖とする宮川派、肉筆専門でややふっくらとした下膨れ的な面容の美人画を多く描いていた。これらは例の面長、切れ長の喜多川派、歌川派とは一線を画すのかとは、今適当に思ったこと。

《化粧美人図》

《化粧美人図》 (西川祐信) 江戸時代 18世紀

 これもふくよかな顔立ち。鏡に映った顔とその前に本人の顔が微妙に異なっていて、本人の方が切れ長の目をしているのがちょっと面白いなと思った。

《柳下腰掛美人図》

《柳下腰掛美人図》 (宮川長春) 江戸時代 18世紀

 宮川派の祖。宮川派もふっくらとした容貌の絵を得意とした。宮川派は長亀、一笑、春水らの門人を擁した。寛永3年(1750)に稲荷橋狩野家の日光廟修復のときに報酬不払いで狩野家と紛争になり長春は暴行を受けたという。その報復で門人らが稲荷橋狩野家邸に斬り込むという事件がおきる。この事件で科で弟子の宮川一笑は伊豆新島に流罪となりその地で没したという。

《寒泉浴図》

《寒泉浴図》 (喜多川歌麿) 江戸時代 1799年頃

 歌麿の最晩年の肉筆画。風呂おけの写実的な描写に対して女性の姿はどこかデフォルメというか柔らかなフォルムになっている。このポーズかなり無理があるような気もしないでもないが、後ろ姿というのがどうにもエロチックでもある。

《二美人図》

《二美人図》 (葛飾北斎) 江戸時代 19世紀初期

 これも重要文化財北斎は勝川春章に師事して勝川春朗と称して画業を出発し、その後土佐派、狩野派琳派などの画風を学んで一家をなした。この作品は葛飾北斎の40代の作品。

《雪月花図》

 《雪月花図》 勝川春章 江戸時代 18世紀

 これも重要文化財

雪月花の三幅対に王朝の三才媛、清少納言紫式部小野小町を、当世市井の婦女に見立て描いている。春章が貴顕・富豪の求めに応じて肉筆美人画に専念した天明年間の作であろう。 (解説キャプションより)

《婦女風俗十二ヶ月図》

 

《婦女風俗十二ヶ月図》 (勝川春章) 江戸時代 18世紀

この作品は肉筆浮世絵の中でも代表的な傑作で、当初の十二幅中、一月と三月の二幅が失われている。そのため、歌川国芳(くによし)によって補充されたが、現在その一幅も失われ、「三月・潮干狩図」のみが現存している。この揃物は、春章の最も脂の乗った天明期(1781~89)の作で、月々の季節感や行事を各図に背景として見事に取り入れている。また、縦長の画面に、数人の婦女子と楼舎、調度、花卉などを巧みに描き込んだ構図の美しさや精緻な描写も、肉筆画における春章の優れた力量を見せている。とりわけ美人の衣裳に見られる細密な描写と色彩には、春章の非凡な手腕が発揮されている。最後の「十二月節分図」だけに「旭朗井勝春章画」の落款と、「酉爾」の朱文方印が捺されている。松浦家伝来。

https://www.moaart.or.jp/?collections=078

 重要文化財。見事な作品だと思う。今回の企画展の中でももっとも美し異彩を放っている。この作品を観るためだけで熱海にやってくる価値があるかもしれない。12ヶ月のうち一月と三月の二幅がうしなわれ、国芳によって補充されたが、それも一月は失われたとMOA美術館HPの解説にあるとおりだ。

 おそらくこの十二ヶ月図は多くの絵師、画家に影響を与えたことだろう。鏑木清方の《明治風俗十二ヶ月》も春章に影響を受けていると思う。

 勝川春章(1743-1792)は宮川春水に師事し画業をスタートさせた。明和年間に一筆斎文調とともに役者の顔を写実的に描写する役者似顔絵を始め、歌舞伎絵の主流となった。宮川派の系譜をひく春章のの肉筆美人浮世絵は当時から評判が高かった。勝川派の祖でもあり、門人に春好、春英、春朗(のちの葛飾北斎)らがいる。

熱海周遊 (3月14日)

 先週、木金土と伊豆旅行に行ってきた。いつものごとく健保の宿が抽選であたったから。伊東にある保養所は他の保養所に比べると施設が新しく、ちょっとしたホテルみたいな感じで人気があり、抽選でも外れることが多い。現役時代、土日や連休で申し込んで当たったことが一度もなかった。リタイアしてウィークデイで申し込むにようになってからは五割くらいの確率で当たるようになった。

 ここはベッドが標準のため、妻が利用するのに一番いい。他の保養所は畳で布団が基本なのでけっこう起き上がるのにかなり難儀なことが多い。最近は折り畳み式の簡易ベッドを用意してくれることも多いけど。そんなこんなで伊東の保養所に行くことが増えている。

熱海は斜面にへばりついた町

 初日は妻のリクエストで熱海の繁華街を回りたいという。そういえば熱海はいつも通過するだけでほとんど観光したことはない。行くのはたいていMOA美術館くらいだろうか。以前、会社の同僚たちとオヤジ旅行したときに少し回った記憶があるが、なんとなく坂が多い印象だった。そして今回それが思っていた以上だったことがよく判った。

 

 まず車はサンビーチに近接した市営駐車場に止めた。観光するには一番いいかと思ったのだが、これはあまりいい選択だったのかどうか。

 まずは海沿いの遊歩道を歩く。それから一般道へ出るには・・・・・・、階段を上り下りして駐車場の上の歩道橋を通る必要がある。結局来た道を引き返して一度駐車場に戻り、そこから脇に出る。

 すぐそこには熱海のシンボル?、『金色夜叉』の寛一お宮の像がある。

 

 その後は熱海の繁華街を目指すのだが、なにか有効な道がない。途中、ホテルの脇に「熱海駅〇〇メートル」みたいな案内板が出ているのだが、たいていは急な階段が延々続く。そこでだいぶ戻ってから駅方向の道に入りそこから熱海銀座にでてさらに上る。そこからはもう蛇行しながらきつい坂が延々と続く。そうだったな熱海は坂だらけの町だということを、昔の記憶がじょじょに蘇る。そして改めて思うに、熱海は坂だらけの町というより急斜面、崖にへばりついてできた町みたいだ。この町で老後を過ごすのはけっこう大変だなあと思ったりもした。

 かってはオヤジ旅行でほろ酔いかげんでうろうろしたのだが、今は車椅子を押してである。かなりしんどい、きつい。そしてようやく一番賑やかな平和通り名店街に出る。

 妻そこで食べ歩きをしたがっていたのだが、ウィークデイなのに凄い人出である。熱海は賑わっているなというのが一番の印象。客層はというと意外と外国人が少ない。圧倒的に多いのは若いカップルや集団。春休みということもあるし、多分大学生の卒業旅行とかそういうことなのだろうか。

 人気のまる天とかの前は長蛇の列。ちょうど昼時だったので食堂系、特に海鮮丼を食べさせる店の前にも行列ができている。これは並ぶのもちょっとしんどいなと思った。さらにいうと平和通り名店街も緩やかとはいえ、ずっと坂道である。それまでのかなりきつい勾配を上ってきているので、けっこう足にきている。

 食べ歩きを諦めて来た道を戻ることにする。途中で喫茶店「くろんぼ」なる店を見かけたりする。あとでネットで調べるとレトロな雰囲気でそこそこ有名な店のようだ。しかし今どきその名称はちょっとどうかと思ったりもする。

 大阪で家族三人で始めた「黒人差別をなくす会」による抗議の手紙で、『ちびくろサンボ』が絶版となったこと、カルピスのシンボルマークやタカラのダッコちゃん人形などが使用停止、発売停止になったことなど、1980年代に様々なムーブメントがあったことをちょっと思い出したりした。出版社が軒並み抗議を恐れて絶版、発売停止したが、抗議の主体はあくまで三人の家族、しかも当時小学生だった少年の発案だったとか、そういう話だった。

 たしか『ドリトル先生』シリーズの井伏鱒二訳にも差別的表現があり、会は抗議の手紙を送ったが、編集者が翻訳にも歴史的限界があることを明記した一文を『ドリトル先生』シリーズ各巻に投げ込むことで、発売停止をのがれたとかそういう話を読んだことがあった。

 しかし21世紀の今日にあって「くろんぼ」もないだろうと思う部分もあるが、しょせんは観光地のことだし、目くじらたてるのもなんなんかなと思ったり。

 

 昼飯は坂を下る途中で博多ラーメンの店があったのでそこで昼食をとる。まあまあ普通に美味しい。

 

熱海山口美術館

 

熱海山口美術館|体験と学びの美術館

 ここは去年の9月に訪れて以来だ。岡本太郎の河童がお出迎えしてくれる。入館料1400円だが、1階奥にある喫茶室でのドリンク一杯無料と絵付け体験がセットになっているのでまあまあお得感もある。

 

 喫茶室にはリトグラフや版画類が雑然と飾られている。ピカソやルオーのリトグラフと奥に見える片岡球子には60万の値がついている。多分販売をしているのだろう。

平櫛田中

岡倉天心胸像 (平櫛田中

 つい最近、谷中の岡倉天心記念公園の六角堂で観たのと同じ胸像。鋳造品はけっこうあちこちにあるようだ。

横山大観

横山大観4作

 前回と同じ展示だったので、大観作品はまさしく常設展示してあるようだ。一番左の《鶯》は幹の部分はたらしこみ、葉は輪郭線がないなど、技巧の技を尽くしているようだ。

《鶯》 (横山大観
芹沢銈介

法然上人御像》 (芹沢銈介)

 先日、東近美の日本画の室でミニコーナー的に展示してあった型染による染色家、図案家だ。そういえばこの人の美術館がたしか登呂遺跡の隣にあったことを思い出した。確か観ているはずだったがあまり記憶になかったな。

美人画と人形

 

 

 前回来た時に魯山人の陶器と日本画の並列展示に感心した。今回も陳列してあったが、今回はこの美人画と人形の並列展示が思いのほかよい感じがした。上のものがたしか鏑木清方、下の水彩画は安井曾太郎だったと記憶している。

現代芸術コーナー

岡本太郎

奈良美智

村上隆

 熱海山口美術館は小ぶりでアパートの各室を展示室にしたような、ちょっとした画廊の集合体のような雰囲気の美術館だ。収蔵品も小粒ながらなかなか名品も揃っているので、たまに訪れると小1時間、和やかに気分になれる。

 そして春休みということで、駅周辺はえらく賑わっている熱海の喧騒もこの美術館のあたりまでこない。ようするに空いている。熱海といえばMOAみたいな印象もあるが、この小ぶりの美術館ももう少し賑わいがあってもいいかもしれない。

東近美に行く (2月29日)

 2月29日、そうか今年は閏年か。4年後、自分はこの世にいるんだろうか。

 そんなちょっとした感慨を覚えつつ、今年最初の東京国立近代美術館(東近美)に行ってきた。企画展は写真家中平卓馬の回顧展。MOMATコレクション展「美術館の春まつり」は3月15日からの予定なのだが、先行して「桜」や「花」をモチーフにした作品がすでに展示されていた。

 

 

中平卓馬 火―氾濫

中平卓馬 火―氾濫 - 東京国立近代美術館 

  この名前には聞き覚えがある。と、写真を見て思い出した。去年の夏に神奈川県立近代美術館で、森山大道中平卓馬の二人展を観ていた。

神奈川県立近代美術館葉山館 (7月15日) - トムジィの日常雑記

 いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」と称されるインパクトのある、なんていうんだろう状況を切り取ったようなそんな写真群という感じで、写真を観ればなるほどと思うのだけど、うまく言語化できない。ただいえるのはこの手の作品、手法は普遍性よりも、時代性の影響とかを反映しているようなそんな気もしないでもない。

 でも、「アレ・ブレ・ボケ」ってなんだ。

中平卓馬森山大道といった『プロヴォーク』(1969創刊)の写真家たちに特徴的な手法で、当時、第三者からは「ブレボケ写真」と総称された。彼らの写真に特徴的なノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面は、既存の写真美学——整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど——に対する否定の衝動に由来しており、反写真的な表現のラディカリズムを追求するものであった。中平によればそうした写真は「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」ものであった。しかし、その後70年代には多くのエピゴーネンを生み、広告表現にも使用されるなど、初発のラディカリズムは次第に骨抜きにされていった。76年には『アサヒカメラ』誌上で「ブレボケはどうなった」という特集が組まれるが、「時代遅れ」の手法として揶揄するような側面が強い誌面となっている。森山や中平たちは50年代のニューヨークを荒々しい手法で撮影したウィリアム・クラインの影響を受けていることを告白してる。

           (著者: 小原真史)

アレ・ブレ・ボケ | 現代美術用語辞典ver.2.0 (閲覧:2024年3月1日)

  • 「ノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面」
  • 「既存の写真美学—整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど—に対する否定の衝動に由来している」
  • 「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」

 なるほどそういうことかとストンと落ちる感じだ。あの「アレ・ボケ・ブレ」によって活写され対象はキレイで整った、秩序だった様々な表象の裏側にあるもの、それは衝動であったり、矛盾であったり。ようは世界の表象の内面性を抉り出すための手法だったのかと。

《夜》 1969年頃 東京国立近代美術館

 ただしその手法による作品群は、おそらく60年代後半というある種激動の時代にあってこそ効果があったのではないかと思ったりもする。時代が収束に向かった70年代半ばから、そうした作品のインパクトはじょじょに力を失っていったのだろうし、それとともに中平や森山の活動も低迷していく。

  この写真もなんとなくだけど、市街を疾走する軍用トラックのごとく見える。それは70年安保を前にした時代状況、ベトナム戦争への反対機運、それを契機とした世界規模での反戦運動、そういう時代の雰囲気を伝えているのかもしれない(違ってたらごめんなさい)。

 この「アレ・ボケ・ブレ」によって切り取られた対象は、その対象の背後にある文脈や時代性を抜きにしたとき、作品単体としてはなんかよく判らないけれど、なんとなく迫ってくるもの、みたいなインパクトだけみたいなものになってしまう。

 ようは「アレ・ボケ・ブレ」はインパクトを与える手段、手法になってしまうとういことだ。実際この手法は普通に商業写真にも取り入れられいくようになる。中平や森山にはジレンマを感じさせただろうが、ようは換骨堕胎みたいなもので、「アレ・ブレ・ボケ」のインパクトだけが独り歩きしていったということなんだろうか。なんとなく覚えているけれど国鉄のディスカバー・ジャパンのポスターとかその手の類だろう。多分こんな感じのやつだろうか。

 

 まあそれはそれとして、中平の写真は21世紀の今みても一定のインパクトをもっている。でもやはり彼のもっとも印象的な作品はやはり60年代後半という時代を背負っている。時代の内面を抉り出すような作品が、なんとなくノスタルジックな感傷性を秘めてしまう。そしていささかの古さとともに。

 60年代後半、まだ小学校か中学校に上がるくらいの子どもだった自分にも、中平の写真はなんとなく同時代性を感じさせる。ただそれは同時代を生きたという部分での懐かしさみたいな部分だ。あの反体制への情動にも似たうねり、ああいうものはもはや失われてしまったもの、こと、として受容される。中平や森山の作品の背後にあった問題意識みたいなものを、多分も失われてしまったんだろうなという思い。まあいいか。

 

 

 

 

 中平は大学卒業後の数年、雑誌『現代の眼』の編集者だった。最初の彼の作品は勤めていた社の雑誌が発表の場所だった。『現代の眼』、新左翼運動への共感、共闘を全面に打ち出していたいわゆる新左翼系雑誌だ。当時の問題意識をもった若者たち、今風にいえば過激な左翼的志向の彼らが手にした雑誌は、『朝日ジャーナル』と『現代の眼』だった。

 自分も高校生の頃だったか、『朝日ジャーナル』や『現代の眼』はよく読んでいた。70年安保に遅れてきた少年の一人として、問題意識と知的好奇心がそうした雑誌を手にとらせたんだと思う。まだ若者が社会変革を唱えることが当たり前だった時代でもあった。まあもろもろ下火にはなっていたけど。 

 もっとも『現代の眼』を発行していた現代評論社は、右翼総会屋が経営していた。総会屋が法規制で凌ぎがなくなると同時にこの雑誌も廃刊となった。そんな話を聞いたのはずいぶん後になってからのことだ。

MOMATコレクション

 
《行く春》
《行く春》 川合玉堂 1916年

 常設展示は3月15日からの「美術館の春まつり」の展示作品を先行展示しているようで、4階ハイライトはこの時期恒例の川合玉堂のこの作品から。

 川合玉堂は四条派の写実を望月玉泉や幸野楳嶺に学び、上京してから橋本雅邦に師事して、狩野派の手法を取り入れたという。よくいわれることだが、この作品でも対岸の崖や手前の岩石の輪郭線や岩肌の皴法などが特徴的だ。さらに散りゆく桜の花びらの舞う渓谷と係留された舟、そこで働く人など、日本的なふるさとの原風景、桜の季節の終わる頃のゆったりとした時間の流れ、そうした牧歌的かつ抒情的瞬間を活写した作品だ。

 よく見ていると単なる写実性とは異なる、ある種の強調表現も多用されている。以前にも思ったことだが、散りゆく桜の花びらは渓谷の風景に対して、妙に大きいような感じがする。桜は画家の近くで舞っているのだろうか。それは画家の至近で花吹雪のように舞う桜の花びらの中で、遠景の渓谷を眺めているのかもしれない。それでもやはり花びらは渓谷の上を舞っているように見える。一種の強調表現なのかもしれないし、遠近法を超えたイリュージョンなのかもしれない。

 そしてゆっくりと舞う花びらとともにゆったりと時間が流れていくような雰囲気。それでいて渓谷の川の流れは急であり、係留された舟は流れに対して一本の縄でひっしに留まっている。そして水車から流れ落ちる水流。

 桜の花びらが舞うゆったりとした渓谷の時間、忙しなく流れる渓流。それがどこか対比されているような感じもする。この絵、至近で細部を観ているとまったく飽きることがない。

 

 

 
《春秋波濤》

《春秋波濤》 加山又造 1966年

大阪・金剛寺の《日月散水図屏風》が、四季を屛風一双に表しているのを見て感銘を受けた加山が、切金、金銀泥、金銀箔、沃懸地*1、の技法を駆使して描いた、桜の山と紅葉n山という春秋を象徴する二景が、うねる波濤によって六曲一隻の屛風におさめられ、時空を超越したこの世にならぬ光景となっている。 『東京国立近代美術館所蔵名品選 20世紀の絵画』より

 大胆な意匠と装飾性は尾形光琳を意識したものとはよくいわれる。至近で観てみると、抽象表現主義の技法も取り入れているのではないかと思えるほど抽象度が高いように思える。やはり自分的には加山又造は奇想の人というイメージがある。

《南風》

《南風》 和田三造 1907年

 これも4階ハイライトに。隣が原田直次郎の《騎龍観音》なので重要文化財つながりみたいなところだろうか。まあ観慣れた作品、名作ではあるが一介の漁師がこんなギリシャ彫刻のような筋骨隆々かと突っ込んだりして。

 今回、改めて解説キャプションを見てみると、この作品は和田三造の実体験をもとに描かれたものだとか。和田は1902年、美術学校在学中に八丈島航路で嵐に遭遇して三日間漂流して伊豆大島に漂着したという経験をしている。船が沈まないように荷物を捨て着の身着のまま状態だったのだが、船長のはからいで画学生の和田は画材を捨てずにすんだという。画面左側にひざを抱えて座る人物は和田自身。

 この作品は1907年の第一回文展で最高賞の二等賞を受賞。困難に立ち向かう不屈の精神性が、当時の列強に立ち向かう日本に呼応するような形で受容されたという。

 明るい陽射しのもとで海を進んでいくようなイメージを感じていたが、漂流シーンだったかと改めて思った。とはいえ西洋画によくある漂流をモチーフにした作品のような、劇的なものを感じさせない。1900年代初頭の日本には、まだ西洋画のロマン主義的作風は伝来していなかったのかもしれない。あくまでも「明るく、たくましく」的である。

《コンストルクチオン》

《コンストルクチオン》 村山知義 1925年

ベルリンで前衛美術の洗礼を受け「普遍妥当的な美の基準はない」ことを学んだ村山は、芸術と日常との境界を取り外すかのように、木片、布、ブリキ、毛髪、そしてドイツのグラフ雑誌のグラビアなど、身の回りの素材を用いて画面を構成した。一見、破壊的で混沌としてみえるこの作品だが、一方で、左上に突き出す角材と中央の下向きの矢印との対比や、垂直軸と水平軸の強調などは、構築への意思を感じさせる。

 海外の前衛的な思潮を伝えた戦前の振興美術運動のリーダー的存在であった村山知義は、帰国後柳瀬正夢らと前衛グループ「マフォ」を設立。建築や演劇など幅広いジャンルで活躍した。吉行淳之介の母である吉行あぐりの山の手美容院の設計や日本プロレタリア美術家同盟設立などに中心的な役割を果たした。

 この作品にも近代文明への批評や批判、そして構築のイメージなどが入り組んだ先進的な表現があるとされている。そのうち初期の前衛美術の受容作例として重文指定でもされるのではないかと、ひそかに思っていたりする。

 でも至近でよく見てみるとちょっとユーモラスな文様もあったりして、これを大真面目に付加したのか、あるいはちょっとしたイタズラ心だったのか。この「豚、鳥、蓄音機風、ヘビの文様を『マヴォ』の広告デザインとの関連、あるいは原始キリスト教チベット仏教由来のものとの関連を指摘する論文もあったりする。ちょっとしたイタズラ心でかたずけてはいけないのかもしれない。

村山知義の 「過度期」 の作品に就いて
《キーワード》コラージュ 構成主義 新興美術 写真」 (ジョン・ワインストック)

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/4-3.pdf

 

 

 
《麗子六歳之像》

 4階3室では岸田劉生のミニコーナーがある。なんでも今年は劉生の娘麗子の生誕110年にあたるということで、ちょっとした《麗子像》祭といった雰囲気だ。一番有名なトーハクの《麗子像》の借り受けはないようだが、いつも見慣れた《麗子肖像(麗子五歳之図)》とは違う《麗子像》の展示もあった。

《麗子六歳の像》 1919年 水彩・紙

 キャプションには岩波茂雄旧蔵、岩波雄二郎遺贈とある。岸田劉生の全集が岩波書店から出ていることもあり、戦前岩波茂雄岸田劉生には交流があったのかどうか。まあ普通に戦前の高額所得者であった岩波なので絵画もそこそこ収集されていたのかもしれない。岩波雄二郎は二代目岩波書店の社長。個人経営だった岩波書店が1949年に株式会社化したときに30歳で社長に就任、以後、会長、相談役を歴任して2007年に死去している。

 モダンな青年実業家で社長就任と同時に東京商工会議所の発足に中心的な役割を示した。岩波の経営は主に小林勇が担っており、岩波書店と岩波家の架け橋的存在だったのではないだろうか。ゴルフ嫌いである時期までは岩波書店でゴルフの話題は禁句だったというエピソードが実しやかに語られていた。

 絵の来歴一つみていてもいろいろ喚起することがあり、それも絵画鑑賞の楽しみかもしれない。

 このコーナーでは麗子の写真も展示してある。リアル麗子はなかなか利発そうな雰囲気の少女だ。右側は母親で茶人でもある蓁(しげる)。

 
芹沢銈介

 3F日本画のコーナーでは染色工芸家、図案家芹沢銈介の特集。

芹沢銈介 - Wikipedia

 ほとんど馴染みのない人だが意外と面白い。

 

 
《蟻》

《蟻》 ジュルメーヌ・ルシエ 1953年 ブロンズ 

新収蔵&特別公開|ジェルメーヌ・リシエ《蟻》 - 東京国立近代美術館 (閲覧:2024年3月1日)

 2Fギャラリー4では新収蔵品《蟻》の特別公開ということで、関連するハイブリッドをモチーフにした作品や彫像作品が展示してある。

ジェルメーヌ・ルシエ

略歴|1902年、南仏アルル近郊グランの生まれ。モンペリエのエコール・デ・ボザールにて、オーギュスト・ロダンの弟子ルイ=ジャック・ギーグに彫刻を学ぶ。26年パリに出て、エミール=アントワーヌ・ブールデルに師事する。34年、初個展。35年、ポンペイを訪れ、溶岩により石化した身体から新たな表現へのインスピレーションを得る。39年、第二次大戦のためチューリヒに居を移し、同地にて制作を続け、ジャン(ハンス)・アルブ、アルベルト・ジャコメッティマリノ・マリーニなどと親交を結ぶ。46年、パリに戻る。50年、スイス国境近くの村アッシーにある教会に、キリスト像を設置するも、翌年、記号的に表現されたその像は地元の反対によって撤去される(71年に再設置)。51年、第1回サンパウロビエンナーレ彫刻部門で一等賞受賞。56年、パリの国立現代美術館で回顧展開催。59年、南仏モンペリエで死去。

(解説キャプションより)

 人間(女)と蟻の混成交雑—ハイブリットをモチーフにした作品。異形としか言い得ぬような感じがするし、どこかグロテスク気分を抱くのはいたしかたないか。抑圧された女性と小さく、踏みつぶされたり、他の昆虫に捕食される蟻とのイメージの交錯をみるみたいなことだろうか。

*1: 蒔絵(まきえ)の技法の一つ。うるし塗りの器面全体に金粉または銀粉を蒔きつめて、その上から漆を塗り、磨きあげて地としたもの

マリー・ローランサンと堀口大学

 アーティゾン美術館の「マリー・ローランサン」の回顧展の解説キャプションに印象深い記述があった。メモをとっていたのでそのまま引用する。

マリー・ローランサンと芸術

ローランサンは、同時代の芸術家たちと交流を持っていたものの、ある特定の流派に正式に属するのではなく、独自の画風をつくりあげた。そのようなローランサンの作品を特徴づけているのは、そのパステルカラーの色彩だろう。
堀口大學 (1892-1981)は、1915年、外交官の父の赴任先であるマドリードに滞在していたときに、ローランサンと出会った。堀口は、ローランサンの散歩のお供を務めて、アポリネール(1880-1918)をはじめとする文学や芸術を教えてもらい、絵の手ほどきも受けた。あるとき堀口は、ローランサンから、自分の使っている色はこれだというメモを渡されたという。そこには7つの絵の具の色が書かれていた。

コバルトブルー(bleu de cobalt
群青 (bleu d'outremer)
茜紅色 (laque de garance)
エメラルドグリーン(vert emeraude)
象牙黒(noir d'ivoire)
銀白(blanc d'argent)
鉛白(blanc de zinc)

この7色のうちに青が2種、白が2種含まれており、色の種類は4つのみになる。とてもシンプルな色合いである。ローランサン自身も「夜の手帖』のなかで、「朱色(vermillon)が使えず、茜紅色を使った」、「赤(rouge)は敵だった」と書いている。その後、ローランサンのパレットには黄色も加わり、より鮮やかさを増していくが、基調色は変わらない。ローランサンの優美で華やかな女性たちは、パステルカラーの色面で表されており、その身体を感じさせない。そういう意味で、女性たちは中性的に表現されているとも言える。とはいえ、画面はなめらかに仕上げられるのではなく、絵の具の質感を全面に出している。ローランサンの芸術とは何であったのか。彼女の群像表現を通じて確認してほしい。

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 

      <コバルトブルー>             <群青>



       <茜紅色>            <エメラルドグリーン>

 

       <象牙黒>              <銀白>

 

 <鉛白>


 さらにこれに黄色がまざるという。マリー・ローランサンのパレットのこの色を想像しながら実際の絵を観てみると、妙に納得感があったりもする。

 

 

 堀口大学は仏文学者として有名なあの堀口大学である。我々の世代にはお馴染みで、自分などもヴェルレーヌやランヴォーの詩をこの人の訳で読んだクチである。

堀口大學 - Wikipedia

 堀口が渡欧中にマリー・ローランサンと交流があったというのは、今回初めて知ったのだが、一部ではけっこう有名な話のようだ。堀口(1892-1981)、ローランサン(1883-1956)、9歳の歳の差がある。出会ったのは1915年の頃で、第一次世界大戦のさなか、ドイツ人男爵と結婚しドイツ国籍となったローランサンは夫とともにスペインで亡命生活を送っていた。堀口は当時外交官であった父親の赴任先だったスペインにいたという。ローランサンは9歳下の若い東洋人の学生に詩や絵の手ほどきをしたのだという。

 二人に恋愛的な感情があったのかどうかは様々な説がある。堀口は帰国後もそのことについては多くを語っていないとも。しかし引用した文にあるとおり、ローランサンは自らの絵画制作の基本となること部分を示唆しているところなど、かなり親密な部分があったのかもしれない。

 

 堀口大学というと、自分はやはりランボーの詩のことを思い出す。多分、読んだのは16~17歳の頃のことなので、いまだに覚えているのはけっこう印象深かったのだろうと思ったりもする。

 それはまあランボーの代名詞ともいうくらい有名な詩なので、70年代あたりで文学に少しカブレたような少年が覚えたとしてもまあまあ不思議ではないかもしれない。

<永遠>

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った(つがった)海だ。  堀口大學

 

 この詩は他にも多くの文学者、詩人が訳出している。有名なところを三人くらい引用するとこんな感じだ。

 

とうとうみつかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽(いりひ)といっしょに
去って(いって)しまった海のことだ。  金子光晴

 

また見つかった。
何がだ? 永遠。
去って(いって)しまった海のことさあ。
太陽もろとも去って(いって)しまった。 中原中也

 

また見附かった。
何が、永遠が。
海と溶け合ふ太陽が。   小林秀雄

 

 多分、一番意味が判りやすいのは小林秀雄かもしれない。でも、自分は最初に読んだ堀口訳がなんとなくしっくりきた。「番った」の意味を調べ、そしてフランス語で太陽が男性名詞であり、海が女性名詞であることなどを調べたりしたときに、この詩のもつエロチックな感傷性みたいなものを想像(今風にいえば妄想)してみたものだった。そうか永遠とはそういうエロチックな部分なのかみたいな・・・・・・。

 まあ16~17歳の多感かつ稚拙な思考の産物かもしれないが、早熟な天才詩人の感性は、アホな男子の想像力(妄想力)を喚起するに十分だったのかもしれない。

 

 画家として、詩人としてのマリー・ローランサンは、堀口大学とのエピソードなどから、なんとなくそれまでのエコール・ド・パリ派周辺の女流画家というポジションから、ちょっとだけ親和感が増したような気がした。まあそんなところだ。