4月の日誌的

テキストとレポート

 やはりGoogle keepで日記のようなものをつけ始めたら、はてなの方はおろそかになってしまった。まあここのところは、テキストの読み込みやら、レポート課題の草稿作りとかに時間をとられていたので、どちらかといえばそっちの影響かもしれない。

 科目は「西洋史」で課題は四問。最初の一問から四問までは西洋史というよりも「歴史学」や「歴史学」に関するもの。E.H.カーのこともテキストに言及してあったりなど、まずはテキストを読み込むのにえらく時間がかかってしまった。

 おまけに四問目はいくつかのテーマから選んでそれについて論じるのだけど、選んだのが「イギリス産業革命とその社会的帰結」。そのため別に『世界の歴史22巻』を概説書として通読するはめに。しかしなんで金払って、それもそこそこ高い金払って、こんな苦行しなくてはならないのだろうなどと。

 もう67歳の老いた脳ではもろもろ集中力、理解力も減じているし、本読んでいてもすぐに睡魔がやってくる。まあ卒業できようが、できまいが今年が最後なので、とりあえずダラダラ続けるしかないか。

4月2日

保険の話

 生命保険で2年前に受けた白内障手術の給付金が降りるようだ。先日やってきた保険屋さんにそのことを話したら、手術内容の明細が判れば降りるという。保険屋はずっとかけている生命保険が6月に更新になるので、継続するか、保険内容を見直すかみたいな話。

 今の生命保険は多分、祖母が始めたのでおそらく40年くらい前から。いちおう死ぬと〇千万くらいの死亡保険になるのだが、6月からは保険料が3倍近くに跳ね上がって7万近くになる。とても払えないので解約するつもりなのだが、解約しても10数万しか戻ってこないとか。

 もう子どもも独立したし、死んでも葬式代程度があればいいかなどと思ったりしてもいる。障害のある妻のことを考えると預貯金だけではしんどいものがあるかもしれないけど、こればかりは。

夕食

 めずらしく作ったものを全部書き出した。

麻婆茄子

スペイン風オムレツもどき

浅漬け

レンチン菜の花

サラダ

ゴーストバスターズ アフターライフ』

ゴーストバスターズ/アフターライフ | Netflix

 

 深夜、Netflixで『ゴーストバスターズ アフターライフ』を観た。新作の『ゴーストバスターズ フローズン・サマー』がまもなく公開されるということで話題になっていたのでその前作を観てみようかと。

 子役のマッケナ・グレイスは確かに上手い。新作でも主演を務めているようで順調にキャリアを積み重ねている。現在は17歳で、大人っぽい雰囲気で子役的イメージを脱し始めているようだ。この子は『ギフト』で天才少女役を演じていたのを覚えている。子役時代にスターとなった人は、その後のキャリア苦戦したり、薬などに走るケースもある。この子はどうなるだろうか。
 映画自体は定番のコメディであり、かっての雰囲気をよく受け継いでいる。監督のジェイソン・ライトマンは第一作の監督だったアイヴァン・ライトマンの息子。若い頃から俳優として、また監督としてキャリアをスタートさせている。シャーリーズ・セロンの『ヤングアダルト』、『タリーと私の秘密の時間』なども監督している。またデミアン・チャゼルの『セッション』の制作総指揮も行っている。

 その後もノリで女性科学者をメインにしたコメディスピンオフ作品『ゴーストバスターズ(2016)』も観た。これは昔、家族でワカバウォークで観ている。まあまあのドタバタコメディ。主役の女性たちはみなコメディエンヌとしてキャリアのある人たちで、久々観たけどけっこう楽しめた。

 ということで寝たのは明け方近く。

我が家の桜

 陽気がいいせいか、我が家の桜も少し花開いた模様。

 

4月3日

 朝8時少し前、妻の階下からの声で起きる。

 すぐに降りて妻のインシュリン注射をしてから、ゴミ出しに行く。前夜集めておいたビン、缶、他プラ。最近、よく飲むので缶ゴミが多い。

 

 9時頃、テレビの「モーニングショー」を見ていたら、石垣島や沖縄近辺で震度4の地震発生。震源は台湾近くで浅いので津波警報が出た。それからはどこのチャンネルを回しても「津波が来る、逃げて」のオンパレード。

 じょじょに情報が入ってきて、震源の台湾ではマグニチュードが7.6、震度も6強とかで、映像でもビルが傾いたり、山が崩れたりといった情報も入り始めた。

4月4日

 明け方まで西洋史のテキストからのノート書き。といってもメモソフトに入力してまとめているのだけど。

 起床は11時過ぎ。妻のインシュリンを打つために階下に行く。

 

 新聞に目を通すと訃報記事が。

 NHKのアナウンサーだった鈴木健二が亡くなったとか。この人の本『男は20代に何をなすべきか』が学生に読まれていたことを思い出す。勤めていた大学内の本屋でもそれこそ飛ぶように売れた。なんでこんな本が売れるんろうって思ったものだ。自己啓発雑誌の『ビッグトゥモロー』が創刊されたのも同じ頃だったか。

 同じくアメリカの作家、ジョン・バースが亡くなった。難解なアメリカ文学の人。自分的にはピンチョンと同じ括り。酔いどれ草の仲買人』、『やぎ少年ジャイルズ』は持っているけど読んだ記憶がない。引っ張り出して読む気もさらさらない。多分、一生読まないのだと思う。

鈴木健二さん死去 元NHKアナウンサー 95歳:朝日新聞デジタル

ジョン・バースさん死去:朝日新聞デジタル

 

 その後は妻のお出かけ欲求を満たすため、幸手の権現堂桜堤へ行く。去年行ったときは2月だったので駐車代は無料だったけど、今回は駐車場料金2000円をきっかりとられる。桜は三分から五分咲き。菜の花は満開近い。

 

 帰宅後、割と早めに夕食。

 その後はだいぶ咲き出した庭の桜見つつ、一人でだらだらと酒を飲む。酒は横山大観が愛飲したという「酔心」。なんとなく「勧酒」の気分だ。

勧酒  井伏鱒二
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

 

4月5日

 日中は中央公論の『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』のイギリス産業革命の部分を読んだ。例の西洋史の課題のため。もともと受験は日本史だったし(もう50年近い前の話だけど)、世界史のことは本当に知らないことばっかりである。

 農本主義から工業化社会への転換、人口増加、運河建設、舗装道路、鉄道の建設など交通網の整備。すべてエネルギー源の石炭を炭鉱から紡績工場のあるランカシャー地方(マンチェスターなど)に運ぶためだったとか。

 夕方、友人と会うために外出。その前に妻用の夕食のおかずを作る。

 友人と会う前に少しだけ散歩。埼玉は駅から少し歩き、住宅地を離れるとけっこう畑にでくわすが、菜の花畑や桜を見かけることもある。

 

4月6日

 前夜、明け方4時過ぎまで映画を観ていたので、かなり遅い起床。妻のインシュリンをうってから軽めの朝食。

 午後は自室でダラダラと過ごす。事前に車椅子を外に出しておいたので妻は3時過ぎに一人で散歩に出かける。その間に週に一度の掃除。

 夜7時くらいに駅前のスーパーに行き買い物。トンカツが30%オフになっていたので2パック購入。夕飯はカツ煮に決定。他には半額になっていたさつま揚げの詰め合わせとか。なんかこういうおつとめ品や半額ものを7時過ぎに買いに行くって、高齢貧困家庭っぽい。いや実際そうなんだけど。

パルプ・フィクション

 明け方近くに観たのはタランティーノの『パルプ・フィクション』。Netflixで観たのだが本当に久々観た感じ。最近、たしかAmazon primeで『レザボア・ドッグス』を観たので(こっちは初めて)、その流れでって感じ。知性のかけらもないクズなギャングのエピソードを集め、時系列をバラバラにしたアンソロジーみたいな映画。『レザボア・ドッグス』に比べるといささか冗長ではあるが、やっぱり面白い。トラボルタとユマ・サーマンのツイストを踊るシーンは何度見ても最高。

 クリストファー・ウォーケンの出てくるシークエンスはちょっとダラける感じで寝そうになった。クリストファー・ウォーケンハーヴェイ・カイテルなどを使うところなど、タランティーノマーティン・スコセッシ好みなんだろうなと感じる。そういえばデ・ニーロはなかなか出てこないなと思ったのだが、あれは『ジャッキー・ブラウン』だったか。

 勢いで次は『ジャッキー・ブラウン』も観るかとは多分ならないと思う。タランティーノ、面白いことは面白いが殺伐としているし、ぶっちゃけクズたちの話はちょっと食傷気味かもしれない。この感覚は北野武の映画をあまり観たいと思わないのと同じような部分かもしれない。

 同じクズを集めたヤクザ映画でも、深作欣二の『仁義なきシリーズ』はけっこう好きなのだが、その違いがなんというか微妙。多分『仁義なきシリーズ』はヤクザ映画というよりも、ヤクザ社会でのある種の群像劇みたいな部分に面白味を感じるのかもしれないな。まああまり掘り下げて考えたことはないけど。

4月7日

 妻がデイサービスの友人たちとカラオケに行くというので、その送迎を仰せつかった。11時からの約束で、その10分くらい前に友人2名を車で拾ってカラオケ喫茶まで。

 妻の友人の一人は70歳過ぎの独身男性、妻と同じく脳梗塞片麻痺。状態は妻よりはだいぶいいようで、なんなら一人で少し離れたカラオケボックスまで出かけていくという無類のカラオケ好き。もう一人はやはり70過ぎの女性。こちらはたしか脳幹出血の後遺症で下半身に痺れがあるという。とはえい両手両足ともに使える。ただ痺れであまり感覚がないという。

 そういう意味では片麻痺高次脳機能障害、1種1級という点だけでいえば妻が一番重症なのだと思う。まあ病気はすべて個々だからなんともいえない。

 

 夕方、また迎えに行くまではフリータイム。

 割と近くということもあり、一人でいつも妻と二人でよく行く高麗川遊歩道に行く。

 手ぶらで来たので、スマホBluetoothのイヤホンつなげて音楽を聴く。なんかBeatlesローラ・ニーロスティーヴィー・ワンダートッド・ラングレンばかりがループしている感じだった。

 遊歩道の周囲に咲く菜の花、桜とも満開に近い。

 菜の花畑を見ていると、なんとなく「菜の花畑でつかまえて」みたいな言葉が思い浮かんだ。もちろん『The Catcher in the Rye』のパクリだ。イメージ的には菜の花畑で「死」に捕縛されるような感じ。そうだな、菜の花畑で死ぬというのも悪くないかと。

 なんとなくスウェーデン映画、ベルイマンの『みじかくも美しく燃え』を連想した。音楽はたしかモーツァルトのピアノ・コンチェルトだったか。

 

 

 

 

4月8日

 8時少し前に起床。妻のインシュリン注射。

 紙ごみの日なので、前日縛っておいた新聞紙を捨てに行く。

 午前中、先週とった西洋史のノート読みながら、そのままうつらうつら。

『エア・フォースワン』

 午後、NHKBSでやっていた『エアフォース・ワン』を観る。これは多分初めてかもしれない。ハリソン・フォードが大統領役で、ハイジャックされた大統領専用機エアフォース・ワン内で孤軍奮闘する話。荒唐無稽だが面白い。女性副大統領役のグレン・クローズが名演技。この人はやっぱり『ガープの世界』の母親役が印象的。あと『危険な常時』がオカルトチックで凄すぎた。

4月9日

 前夜からずっと雨が続いてる。

 朝はいつものように妻のインシュリン注射。それから前夜用意した燃えるゴミを出しに行く。

 妻をデイに送り出してから眠ってしまい、目を覚ますと昼近い。そういえば前夜はNetflixで『正しい医師生活』を3~4話みたんだっけ。これはたしか2年くらい前に夢中で観ていた記憶がある。医者もの、大病院での群像劇だが、とにかく悪人が出てこない。多分、韓国ドラマでは一番好きかもしれない。

ア・フュー・グッドメン

 これもNHKBSでやっていたので観た。

 キューバのグンタナモ基地内で起きた殺人事件を巡る法廷サスペンス。トム・クルーズジャック・ニコルソンデミ・ムーアキーファー・サザーランドらが出演。面白い映画だが、やっぱりトム・クルーズが二枚目過ぎて入ってこない感じ。けっして演じが下手ということではないのだけど。この感覚は『7月4日に生まれて』でも感じたものだ。

 ジャック・ニコルソンの演技はいかにもというか感じの軍人ギミック。トム・クルーズの優秀な弁護士にして海軍の将校といいもう少し類型的な役柄を変えた方がいいような気もした。

 ハリウッドのシステム、人気俳優起用による興行収入期待とか、もろもろあるのだろうけど、こういう配役はちょっと微妙、せっかくの法廷ドラマの緊張感がだいなしみたいな感じがする。こういう映画ではもう少し配役を考えた方がいい。そしてジャック・ニコルソンはやり過ぎというかなんというか。でも当時的にいえば人気二大俳優を配し、さらにやはり人気のあったデミ・ムーアも使っている。主役三人で制作費の三分の二くらいもっていったのではないかと想像したり。

 ということで面白いような面白くないような。ぐいぐい画面に引き込まれることもなく終了した感じ。

4月10日

 前夜はNetflixジュリア・ロバーツ主演の『終わらない週末』を観た。サイバー攻撃でネットワーク、通信が遮断されたリゾート地で孤立化していく家族の話。奇妙な映画だ。

 カメラワークがけっこう面白いこと、制作会社がバラク・オバマとミシェル・オバマが立ち上げた会社で、二人はエズゼクティブ・プロデューサーも兼ねているとか。

Watch 終わらない週末 | Netflix Official Site

『エリック・クラプトン : ライヴ・イン・サンディエゴ〜伝説の一夜』

  友人と立川で昼のみをすることにしていたのだが、急遽友人がクラプトンのライブ映画をやっているので観ようという。まあクラプトンは嫌いじゃないし、この友人とは以前クラプトンとスティーブ・ウィンウッドのライブを武道館で観ているくらいだしということで、昼12時15分からの回を観ることにした。

 しかしこんなに早い時間帯の回の映画を観るのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろうか。映画館に入るとちょうど午前の回が終わったところで、人が出てくる。全部で10人くらいか。まあウィークデイだしね。クラプトンだし、ウィークデイだし、観客は全員シルバー世代だろうと思ったのだが、何人か若い人もいてちょっと驚いた。逆に我々が見る昼からの回はというと、こっちも全部合わせて10名くらいで、こっちは全員シルバー、おそらく平均年齢は65以上だと。まあそういうものだ。

(閲覧:2024年4月1日)

 このライブは2006年に行われたもので、クラプトンが若くてイキのいいデレク・トラックスとドイル・ブラムホールⅡ世を引き連れ、さらにゲストとしてクラプトンがファンであることを公言していたJ.J.ケールが参加したライブ。これはなんとなく聞いたことがある。まさに伝説のライブだ。

メンバー以下のとおり(年齢は当時)。

エリック・クラプトン (61): ギター、リードボーカル、プロデューサー
ドイル・ブラムホール Ⅱ世(38): ギター、バッキング・ボーカル
デレク・トラックス (27):スライド・ギター
ウィリー・ウィークス(58): ベースギター
ティーブ・ジョーダン (49) : ドラムス
クリス・ステイントン (62):キーボード
ティム・カーモン  (?): キーボード
ミシェル・ジョン  (?): バッキング・ボーカル
シャロン・ホワイト  (?): バッキング・ボーカル

<ゲスト>

J.J.ケール(68): ギター 、 ボーカル
ロバート・クレイ(53):ギター、ボーカル

 ゲストを除くほぼこのメンバーで2006年の11月~12月に来日していて、現在まででもクラプトンの最高ライブと言われている。また当時からギター小僧として、若手三大ギタリストとして名を馳せていたデレク・トラックスをツアーに参加させたことも有名で、この時期のライブではデレク・トラックスがクラプトンを食ったともよくいわれたところだった。

 もう一人のギタリスト、ドイル・ブラムホールⅡ世は左ききの名手である。注意して映像を見てみると、この左ききギタリストは右きき用に張ってある弦のまま左で弾いている。ようするに右利きギターのダウンストロークはアップストロークになるというやつだ。これってギター始めた頃に、左利きだと弦を撒き直さなければならないので、右利きギターをそのまま使う場合にやるということでよくあるらしい。

 大昔、日本のロックバンドでノラというグループがあって、ビートルズの「You Never Give Me Your Money」をまんまパクって「懐かしのメロディ」とかいう曲でデビューした。そのメンバーの一人が左利きで、右利きのギターをそのまま使って弾いていたのを覚えている。たしかラジオかなにかに出演したときにその話になって、実際に弾いたときに、不思議な音色だなと思ったとか。まあこれは余談も余談。

 ドイル・ブラムホールⅡ世はクラプトンのバンドメンバーとしてはかなり長くつきあっていて、たしか2023年の来日でもメンバーに入っている。自分はというと2014年のテデスキ・トラックス・バンドのライブでこの人が加わって何曲一緒にやっているのを見ている。そのときもドイル・ブラムホールって誰だみたいな話になって、一緒に行った友人とたしかクラプトンのバンドにいるやつみたいは話をしてたような。

 あとこの人は、一時期シェリル・クロウとつきあっていて、アルバム『100 Miles from Memphis』のプロデュースをしていたっけ。当時48歳のシェリルが6歳下のギタリストと付き合っているみたい情報が伝わってきたような。

 ギター自体は右利きギターそのまま左持ちでということで、ちょっと不思議な音になるんだけど、割とオーソドックスな演奏。そしてこの人もデレク・トラックス同様指弾き。でもデレクの音が柔らかいのに対して、やや硬質な感じがする。さらにこの人がヴォーカルもできるのでクラプトン的には重宝しているのかもしれない。

 クラプトンはピックを使うけど、デレクとドイルは指弾き。でも音の感じはだいぶ違う。そういうところがこのトリプルギターの持ち味になっている感じがした。

 リズムセクションはというと、ベースがウィリー・ウィークス。この人もキャリアが長い。この人を最初に知ったのはたしかドゥービー・ブラザースあたりからか。たしか解散ツアーのときにもこの人がベースをやっていたと思う。

 もうバックとしては本当にいろんな人とやっている。自分の記憶ではライブを二回観ている。一回はたしか矢沢永吉の武道館。何年頃かも定かではないが、ある時期の矢沢は解散したドウービーのメンバーを積極的に使っていた。もう一つは2011年にクラプトンとウィンウッドのライブ。これも武道館だったけど、あの時はドラムがスティーブ・ガッドだった。

 今回のライブ映像でも、ウィリー・ウィークスのベースは本当に安定している。なにかもうバンドの音が締まるという感じだった。

 そしてもう一人のリズム・セクション、ドラムはスティーブ・ジョーダン。この人も凄い。今回のライブである意味、一番凄みを感じたのはスティーブ・ジョーダンだったような。演奏自体はクラプトンが主役、仕切っているのだろうけど、個々の演奏だとなんとなくジョーダンの仕切りみたいにも思えてくる。多分、クラプトンが目で合図を送るとジョーダンがそれに合わせてコントールするみたいな雰囲気があった。いや凄かった。

 そしてこの人というと思い出すのは、ジョン・メイヤーのトリオでのライブ。ギター:ジョン・メイヤー、ベース:ピノ・パラディーノ、そしてドラムのスティーブ・ジョーダンのスリーピースバンド。これはアルバムを持っているけど、YouTubeなどの映像を見ても素晴らしかった。やっぱり秀逸なバンドはドラムとベースが上手いと締まるし、あとはメインのギターの長短のソロが自由自在に発揮できる。

 今回のライブでもドラム、ベース、そして二人のキーボード奏者が安定しているだけにトリプルのギターが本当に気持ちよく、そしてノリ良く演奏している。伝説の一夜と副題がついた名演奏はリズム・セクションの安定があってこそと思った。

 ギターはというとクラプトンはボーカルもこなすだけに、ギタープレイの妙技は若いデレク・トラックスとブラムホールにまかせているような印象もあった。そしてブラムホールはバックメンバーとしての矜持みたいな感じで抑えた演奏をしている。それに対してデレク・トラックスはもう全開という風にスライド・ギターをがんがん鳴らす。ちょっと悪目立ちじゃないかと思うくらい。

 でもそれも含めて、こいつ凄いだろうみたいな感じでクラプトンが引き立てている感じもする。デレク・トラックスの今があるのはどこかでクラプトンの引き立てたからみたいな感じもあるかもしれない。というかトラックス自体は目立とうとかそういうのではなくて、とにかくギターを弾くのが好きで好きでたまらない、もうずっと弾いていたいみたいな感じでどんどんグルーヴしていく。しかも御大クラプトンと一緒にやるのが嬉しくてたまらないみたいな感じ。

「御大、俺まだまだいけます、いきますよ」

「おお、やったれ、やったれ」

 そんな雰囲気が伝わってくるような感じ。

 2006年のライブ映像、18年も前のことになる。当然、画質は悪いはずなんだが意外にキレイだった。たぶん最新の技術、コンピュータを使ってノイズ除去とかされているんだろうか。

 しかし久々に映画館でライブ映像を観た。どのくらい久しぶりかというと、もともとライブを映画館で観るなんてことがほぼまったくないので、それこそジョージ・ハリソンバングラデシュとかウッドストックとか、そういうレベルの大昔以来かもしれない。印象深く記憶に残る劇場でのライブ映画はというと、エルヴィスのオン・ステージだったりして。それって1970年じゃん、中学生の頃じゃんみたいなこと一人でボケ突っ込みしてみたり。

Live in San Diego (Eric Clapton album) - Wikipedia (閲覧:2024年4月1日)

<セットリスト>

1.    "Tell the Truth"    Eric Clapton · Bobby Whitlock    6:23
2.    "Key to the Highway"    Charlie Segar    4:12
3.    "Got to Get Better in a Little While"    Eric Clapton    9:35
4.    "Little Wing"    Jimi Hendrix    6:58
5.    "Anyday"    Eric Clapton · Bobby Whitlock    6:05
6.    "Anyway the Wind Blows" (with J. J. Cale)    J. J. Cale    5:32
7.    "After Midnight" (with J. J. Cale)    J. J. Cale    5:44
8.    "Who Am I Telling You?" (with J. J. Cale)    J. J. Cale    4:52
9.    "Don't Cry Sister" (with J. J. Cale)    J. J. Cale    3:33
10.    "Cocaine" (with J. J. Cale)    J. J. Cale    5:31
11.    "Motherless Children"    Blind Willie Johnson    5:23
12.    "Little Queen of Spades"    Robert Johnson    17:21
13.    "Further on up the Road"    Don Robey · Joe Medwick Veasey    6:49
14.    "Wonderful Tonight"    Eric Clapton    4:31
15.    "Layla"    Eric Clapton · Jim Gordon    8:25

<encore>
16.    "Crossroads" (with Robert Cray)    Robert Johnson    6:55

 


www.youtube.com

 

 

「ベイビーわるきゅーれ」を観た

ベイビーわるきゅーれ - Wikipedia

 なんの予備知識もなく観た。低予算のB級アクション映画だが思いのほか面白かった。女子高校生二人組の殺し屋が高校卒業後、組織から表向きは社会人として生活することを要請される。殺しについてはプロだが、生活力ゼロに等しい二人は、バイトは首になる、そもそも面接で落ちるを繰り返す。

 キレの良いアクションシーンやハイテンポな展開と、二人のグダグダな日常生活、そういう緩急がうまく処理されていて一気に観ることができる。設定の面白さ、不自然さをアクションと俳優の演技でうまく処理している。なんかこう日本映画の底力というか、質の高まりみたいなものを感じた。低予算、無名の俳優でも、設定や脚本のうまさ、役者の演技できちんと娯楽映画にした立てる。そういう部分でのレベルアップを感じる。

 もっとも女子高生の殺し屋というあり得ない設定、そういうものに違和感を感じたり、ハイテンションに銃アクションシーンや格闘シーンが続く、そういうバイオレンスに忌避感をもつ人にはちょっと難しいかもしれない。

 多分、こんなの現実的じゃないと思った瞬間にこの映画に入り込む余地はなくなる。リアリティ性は皆無かというと、アクションの非日常性とは真逆な社会不適合ニートな女子たちのグダグダな日常のリアリティ、そういう部分を笑えるかどうか。まあそういいうことだろう。

 

 まずワルキューレってなんだったっけ。オールドな自分が思い浮かべるのはというと、やっぱりワーグナーの「ワルキューレ」だ。

ワルキューレ (楽劇) - Wikipedia

 そして例の音楽といえばやっぱり「地獄の黙示録」のあのシーンだったりする。

 

 この狂気のビル・キルゴア中佐を演じたロバート・デュバルの怪演技はこの楽曲とともに映画的記憶として残り続けている。どうでもいいがランボーに出てくるトラウト大佐とこのキルゴア中佐がなんとなくゴタ混ぜになるのは、やはりヴォネガットキルゴア・トラウトのせいかもしれない。

 「ベイビーわるきゅーれ」の中でもワグナーの「ワルキューレの騎行」は、様々なバージョンのアレンジで用いられている。やっぱり監督はけっこう意識しているみたいだ。

 

 そもそもの「ワルキューレ」はというと北欧神話に由来している。

ワルキューレ(ドイツ語: Walküre)またはヴァルキュリャ(古ノルド語: valkyrja、「戦死者を選ぶもの」の意)は、北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のことである。

ワルキューレ - Wikipedia

 そこから転じてというかワルキューレといえば「武装した乙女」、「女性戦士」を称するということになったということのようだ。

ワルキューレとは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 「武装した乙女」、ハイティーンの戦士、女子高生の殺し屋、ベイビー・ワルキューレとまあそういうことのようだ。なるほどね。

 

 もっともこの映画は、そういうタイトルやら設定の由来とか、そういう小難しいことや小理屈は一切無用だし、どちらかといえば、そういうのを排除し忌避するところから始まっている。

「いるよね、いちいち説明つけるやつ」

「あ~、そういうのダメだわ」

 グダグダな日常を送る若き殺人乙女が言いそうだ。

 

 この映画はまず監督・脚本の阪元裕吾のアイデア、センス、ハイテンポな演出に依拠している。そして監督が生み出した二人のキャラクター、ちさととまひろという殺し屋女子の設定がすべてかもしれない。

 ハイテンションで社交的だが雑ですぐにキレる性格のちさとを演じるのは高石あかり。彼女はまだ21歳でこの映画の製作時は17歳だったとか。それを考えるとそのタレント性は高いし、おそらくカメレオン的にどんな役も出来そうな感じがする。

 一方、まひろ役の井澤彩織は高石とは9歳上の29歳。キレの良いアクションシーンを演じるのは、もともとスタントパフォーマーだから。そうかスタントマンは今はスタントパフォーマーと呼ぶのかとちょっと納得したりもする。まひろ役はコミュ障でニート度の高さと、格闘シーンのキレとのギャップが面白く、キャラクターとしてはこの映画の中でも異彩を放っている。ただしこのまひろというキャラの印象が強く、今後の井澤のキャリアは、この役に規定されてしまうかもしれないという部分もある。

 

 この映画、一部では絶賛され、単館では池袋シネマ・ロサで9ヶ月以上のロングラン上映されたという。メジャー映画とは別のジャンルになるのだろうが、相当のヒットとなったようで、すでに続編「ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」も公開され、今秋にはパート3も上映予定だという。ヒット作のシリーズ化ということだろうか。

 アクションシーンのリアルさと、グダグダ女子の日常生活、そして主役二人の名演技など、それこそテレビドラマ化してもイケそうな気もする。十代の殺し屋というセンシティブな部分から、ゴールデンの時間帯は難しいだろうとは思うけれど。

 

 もう一つこの映画の面白さは、女性同士の友情という部分、いわゆるシスターフッドなところだ。さらにいうとこの映画、殺伐とした殺人シーンは多数出てくる。もうバタバタと人が撃たれる、死ぬ。ただ一方で、若い女性をメインにしているが、恋愛だのセックスだのは無縁でもある。

 「人は放っておいても死ぬし、セックスをする(寝る)」。

 そういう部分でいえば、この映画にはセックスはない。ありがちなリアリティをそもそも放棄している部分が、この映画がウェットに陥らない理由かもしれない。シスターフッドはハードボイルドでもある。そういうことかもしれない。

 深夜、ハードな殺戮というハードワークの後、二人はジャレあうようにして帰宅する。「酔っ払いみたい」と自虐しながら。

 そして部屋に帰ったら、冷蔵庫に入っているケーキを頬張るのだ。

ポップスが最高に輝いた日

 懐かしい。そして流行ったなという記憶。

 1985年、当時のスーパースターたちが集まって録音された、アフリカの飢餓、貧困救済のためのキャンペーン・ソング「We are the World USA for AFRICA」の録音シーンを撮ったドキュメンタリーだ。

 ミュージックビデオを撮影するために、様々が撮影が行われていた。それに現在の関係者のインタビューを合わせて再編集されたものだ。

ウィ・アー・ザ・ワールド - Wikipedia  (閲覧:2024年2月9日)

We Are the World - Wikipedia (閲覧:2024年2月9日)

 もともとは同じ企画でイギリスのミュージシャンによって行われた「バンドエイド」に触発され、ハリー・ベラフォンテが発案し、音楽プロデューサー、ケン・クラーゲンがライオネル・リッチーマイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダーらに声をかけて始まったプロジェクトだ。

 曲はライオネル・リッチーマイケル・ジャクソンが担当した。ライオネルの証言によれば、本当はスティーヴィーを入れて三人で曲作りをするはずだったが、多忙のスティーヴィーがつかまらなかったとある。もし曲作りの段階でスティーヴィーが加わっていたら、どうなっていただろう。そんなIFがいくつも想起されたりもする。

 本来は参加の予定だったプリンスがアクシデントにより来ることができなかった。プリンスとセットで参加したシーラEは居場所を失い、途中でスタジオを去ったという。プリンスが来れないことがわかり、急遽マイケルがプリンスのパートも行うことになったという。これはウィキペディアに記述がある。

 集まったメンバーは80年代のポップス隆盛下でもっとも人気があった人たちだ。ちょうどMTVによりビジュラル的にもスターの歌う姿が日常的に親和性があった。ある意味、1985年はその頂点にあった頃だったのかもしれない。

 ソロをとるスターたちは今なお健在なものもいる。惜しむらくは鬼籍に入ってしまった人なども。

 録音されたのは1985年1月28日。当日はアメリカン・ミュージック・アワードがあり、ロスアンゼルスには多くのスター・ミュージシャンが終結していた。ハリウッドのA&Mレコードスタジオが選ばれたのも、アメリカン・ミュージック・アワードからスターたちがスタジオ入りできることからだったという。

 プロデュースと指揮を務めた大物プロデューサー、クインシー・ジョーンズは参加するミュージシャンたちに「エゴを捨てろ」と指示したという。

 ソロパートを巡っては様々なエピソードが満載でもある。

 ソロパートをとるボブ・ディランはどう歌っていいか判らず困惑していたという。60年代、70年代のレジェンドとして参加したディランだが、80年代の彼は明らかに低迷していた。MTV全盛のアメリカン・ポップスにあって彼は間違いなく場違いな存在だった。そんな彼の手助けをしたのは天才スティーヴィー・ワンダーである。

 ディランの困惑に対して、クインシー・ジョーンズライオネル・リッチーは、スティーヴィーに助言を求めた。スティーヴィーはピアノの弾き語りで、ボブ・ディランの声色を使ってディラン風にディランのパートを歌った。それによってディランのあのソロを歌い上げることができた。かってのディラン節そのままに。

 難しい入りを難なくこなすディオンヌ・ワーウィック。その後に入るのがうまくいかないウィリー・ネルソンは結局本番でもトチっている。その後のアル・ジャロウは飲み過ぎていてリハーサルで何度もNGをだす。

 

 ブルース・スプリングスティーンの後に入り高いパートをこなすことになるケニー・ロギンスは無難にまとめる。さらに高くなるキーでもスティーヴ・ペリーは完璧にこなす。その後のダリル・ホールはかなりのプレッシャーがあったはずだが、それをきちんとまとめる。若く才気あふれるダリル・ホールをみていると、70代後半になってもまだまだライブをこなす彼とどこか重なる部分があったりもする。

 

 そして笑える部分はシンディー・ローパー。ソロ部分で何度もNGがでる。録音にノイズが入るというのだ。それはなにか、シンディーが沢山つけていた耳飾りや首飾りが出すジャラジャラ音だった。でもシンデイーは気後れ一つせず、アクセサリー類を外して再び録音に臨む。今度はOKがでる。でも本番シーンをよくみると、アクセサリー類全部外してはいなかったりして、当時はまだまだ新人歌手だった彼女はやはりハートが強いと思ったりもした。

 

 基本的にこのドキュメンタリーの主演は企画に関わり、曲をマイケルとともに手掛けたライオネル・リッチーである。そして助演はというと、録音をまとめあげたクインシー・ジョーンズということになるだろうか。二人のスター性、才能、これまでの実績を考えれば別にそのことをどうのこうの言う気はない。

 でも結局のところ、証言によって綴られるこうしたドキュメンタリーは、あるいは過去を振り返るコンテンツは、生き残った者によって作られるということ。生者がすべてかっさらっていくのかもしれないなと、そんなことを思ったりもした。

 

 ビートルズのコンテンツはポールが独り占めしている。もちろん彼の才能、60年代以降の彼のライブでの活躍を考えれば当然だ。でもどこか淋しいものを感じたりもする。昨年亡くなったロビー・ロバートソンもバンドを歴史を独り占めしている感があったような。

 

 それを思うと、この39年前に企画・録音され、世界中で一大ムーブメントとなった「We are the World USA  fore AFRICA」についても、今は亡きミュージシャンに思いをはせたいと思ったりもする。

 

 あと10年もすれば、参加した50名近くのかってのスターたちもほとんどが鬼籍に入るのだろう。それを思うと淋しくもあり、またそれが歴史というものなんだろうという諦念みたいなものを思ったりもする。

 


www.youtube.com

哀れなるものたち  (1月30日)

 

哀れなるものたち | Searchlight Pictures Japan  (閲覧:2024年2月3日)

哀れなるものたち (映画) - Wikipedia  (閲覧:2024年2月3日)

 

 アカデミー賞11部門にノミネートと話題になっている作品ということで観てみた。特に主演女優賞にエマ・ストーンがノミネートされている。今回は贔屓にしているキャリー・マリガンが『マエストロ その音楽と愛』でノミネートされている。個人的には何度も賞を逃しているキャリー・マリガンの受賞をなんとなく押しているのだけど、世間的には圧倒的にエマ・ストーン優勢のようなので、はてさてどんな映画かと。

 『哀れなるものたち』はフランケンシュタインの女性版というふれこみで、身投げした若い妊婦ベラが天才外科医によって生き返る。しかも脳には自ら身ごもった胎児の脳を移植してというキテレツな設定(表現が古いなあ)。

 外科医はベラを自宅で養うのだが、身体は大人の成熟した女性だが、知能は赤ちゃん、身体的にもよちよち歩きという状態。そしてベラは急速に成長をとげ、見聞をひろめるため外の世界へと踏み出し、様々なことを体験する。

 この映画はR18指定となっている。最初に外科医が解剖するシーンなどが出てきて、けっこうグロいのでそっち方面かと思っていたのだが、途中からR18指定の理由がわかった。エグいセックスシーン満載である。とにかくエマ・ストーンがやりまくる。しかもヘアも露骨に描写されるなどなど、エマ・ストーンのまさに身体を張った演技。とにかく凄い。

 なぜにエロかといえば、身体は成熟した女性でも、心は子どものベラである。その成長の過程でまず自慰を覚える。次にはロリで放蕩な弁護士オヤジに外の世界に連れ出され、客船に乗って旅にでる。旅行の間、とにかくヤリまくる。ロリで好色なオヤジとセックス覚えはじめの心はローだか、ハイだかのティーン娘である。

 次に客船で知り合った老婦人とその共をするインテリの黒人青年から、本をすすめられ、哲学や文学に触れる。様々な知をむさぼるように吸収するベラはヤリまくるオバカ娘から脱していく。そして社会の矛盾、貧困などの社会問題にも目を向ける。そうなると好色なオヤジなどどうでもよくなる。

 ベラは好色なオヤジ弁護士を捨ててパリで娼婦となる。娼館のヤリ手婆は娼婦たちを搾取しつつも優しく客あしらいを教える。システムは簡単、客から30フランを取り、娼婦たちが20フラン、やり手婆は10フランを受け取る。

 娼館では社会主義者の娼婦の友だちもでき、ベラは誘われるままに集会にも顔を出す。そして娼館を訪れる客たちの様々な性の趣向。遊び人風のオヤジは挿入してあっという間に果てる。ブルーカラー風の親爺は無言で一方的に襲ってくる。なかには男の子を二人連れたインテリ風の父親は、自らがベラの上にのしかかりながら、セックスの手順を子どもたちに解説する。子どもたちはメモとるなどなど。

 この映画の原題は『Poor Things』は直訳すれば「かわいそうなこと」である。邦訳のあえて「哀れなるものたち」だが、この「哀れなることども」はさしづめセックスを介在した男性たちの所作であるかのようだ。男たちはセックスにより女に対して優越性を誇示している。でもそれはある種の虚実であり、実は性的欲望に支配された哀れな所業にしか過ぎない。多分、そういうものかもしれない。

 だとすれば現代の「Things」は男性優位の社会全般を暗示しているのかもしれない。哀れなる男性社会。

 そういう部分からもこの映画は実はきわめてメッセージ性の高いフェミニズム映画でもある。さらにいえば母親でありながら、自分の子どもの脳を移植されたベラの成長が時間軸として物語をすすめるそれは、女性の成長物語である。最初は親(外科医)の庇護のもとに育てられ、次にはエロオヤジによって性的に調教される。でも知識を得て、さらに娼婦として職業をもち、最後は自立した女性となる。娼婦は女性の原初的な職業とはよくいわれることだが、それをこの映画はあからさまに明示しているに過ぎない。

 映画の時代設定は19世紀から20世紀前半だが、外科医の講義する医大の教室、外科医の広い屋敷、さらにはベラが旅する客船、途中によるリスボンの町、すべてが古めかしくもどこか現実離れした人工性を帯びていて、この世のリアリティとは無縁だ。下敷きとなっているストーリー、フランケンシュタインの世界ともいうべき、ゴシック・ロマンス的世界を大がかりなセットで現出させている。

 エマ・ストーンアカデミー賞がどうなるか(受賞はかなり確率高そう)。それは置いといても多分確実に、美術賞と衣装デザイン賞はもっていくのではないかと思ったりもする。

 映画は世界的にも大ヒットしているという。確かに面白い映画だと思う。途中、若干のダレ場がある。主にセックスシーンだったと思う。この歳になるとセックスシーンは意外と退屈だ。人のセックスで笑うなではないが、笑えないし、興奮もない。ただただ退屈な。

 そういえば学生時代、日活ロマンポルノをよく名画座でおっかけて観たけど、あれもけっこう途中で退屈して寝ていたような気がする。寝て、起きてもスクリーンでは同じような「まぐあい」のシーンが続いていて、なんなら役者も同じだったりして。

 この映画でやたらめったらヤリまくるように描写されるセックスシーン、これもまた「哀れなることども」の所業なのである。なのでその哀れさをこれでもかこれでもかとばかりにスクリーンに映し出す。エマ・ストーン、すでにアカデミー賞女優なのに、よくもこの映画のオファーを受けたと思うし、まさに熱演しているとは思う。

 この映画、とにかく面白かった。そして繰り返しになるけど、この映画は極めて秀逸なフェミニズム映画でもある。でも、もう一度観ようかというとちょっと躊躇うというか。これも繰り返しになるが、過度に繰り返されるセックス描写はあまり好きではない。それがリアリティがあればあるほどに、人のセックスなどどうでもいいわという気持ちが生じる。

 2023年は二つの良質なフェミニズム映画が出現し、いずれも大ヒットした年として記憶されるのかもしれない。一本はマーゴット・ロビーの『バービー』。そしてもう一本がエマ・ストーンのこの『哀れなるものたち』だ。

 しかし、なんで『バービー』はあれだけ話題になり、大ヒットしたのに、アカデミー賞では監督賞にも作品賞にも、そして主演女優賞にもノミネートされなかったのだろうか。ひょっとしたらバービーたちの過激なセックス描写がなかったからかもしれないかと、ちょっとだけ穿ってみたりして。

 

 

TAR/ター

 

 これは暮れに観た。

 ケイト・ブランシェットが女性指揮者の演じ、アカデミー主演女優賞にノミネートされた作品。受賞したのは『エブエブ』のミシェル・ヨー

 映画としての評価は高く、特にケイト・ブランシェットの演技は最高評価といわれている。また様々な伏線あり、オカルトチックな部分あり、などで二度、三度と観ないと判らないという批評もけっこうあったりする。まあ非常に評価が高く、特に映画好きな方にはたまらん的な映画だという。

 重厚な演出、ケイト・ブランシェットの演技も素晴らしいし、2時間38分と長尺でもさほどダレることなく観ることができる。傑作か? そのへんがちょっと。

TAR/ター - Wikipedia

 自分は皮相な人間なので皮相な映画の見方しか多分できない。なのでこの映画も皮相な見方をするけど、けっこうこの映画酷い内容を秘めているかもしれない。

 主人公リディア・ターはレナード・バーンスタインを師と仰ぎ、アメリカの四大オーケストラの指揮を務め、エミー賞グラミー賞アカデミー賞トニー賞という4つの賞を受賞したいわゆるEGOTクラブの一人。現在は世界最高峰のベルリン・フィルの首席指揮者を務め、一方でニューヨークのジュリアードでも学生を指導する。まさにクラシック音楽の世界の最高峰に君臨している女性指揮者である。

 プライベートではレズビアンを公言し、ベルリン・フィルコンミスを妻にもち、アジア系の養女の父でもある。さらに女性アシスタントをあごで使い、学生にはパワハラ的であり、若い楽団のチェロ奏者には色目を使う。

 かって性的関係を強要したために去っていったアシスタントの女性に対して、彼女が業界で働けないように影響力を行使し、その結果彼女は自殺してしまう。そのことが発覚し、さらにターが行ってきた様々なパワハラ、セクハラが告発され、彼女は転落していく。

 そして最後に彼女は音楽を愛する境地を取り戻すことができたのか。

 

 皮相な人間の自分には、これってただのセクハラ、パワハラオヤジの話じゃないとしか思えなかったりする。しかもそのオヤジを女性に演じさせるという倒錯性、アイロニーケイト・ブランシェットの演技はというとただのセクハラオヤジ、パワハラオヤジなのである。しかも彼女は自らの権威、権力に対して無自覚である。そして音楽に対してきわめてピュアでもある。

 普通、これだけの権威、権力を手に入れたら、もっと政治的に振舞う、画策する、防備するだろうと思うものだが、彼女はどこか天然であり続ける。なぜか、彼女にとって絶対なのは音楽そのものであり、その解釈者、演奏者としての天才性なのだ。

 しかしこの映画は何を描こうとしているのだろう。クラシック音楽界のヒエラルキーや権威、権力構造、セクハラやパワハラの実態か。ならばストレートに男性指揮者の物語にすればいいではないか。なぜにそれを女性指揮者によって逆転させるのか。

 そういう指摘もあるだろうとは思ったけれど、この映画はどこか反フェミニズム的である。しょせん女も一緒。権力構造を上り詰めれば、男と同様に権威、権力を振り回すようになると。まあ皮相的にはそういうことなんだろう。

 

 この映画の中でのターの口ぶりは男性そのものだ。字幕もあえて男性的な言い回しになっていたが、多分セリフ自体が男性的なのだろう。なぜそうなのか、ケイト・ブランシェットが女性性というよりも男性性を演じているような演技をしているのはなぜか。

 ようはクラシック業界全体が男性社会だからなのである。現代では女性指揮者も出てきている。でも圧倒的に少ない。オーケストラにおいても女性奏者はまだまだ少ない。つい最近までウィーン・フィルには女性奏者もいなかったという。

 そういう男性社会で女性が進出するには、女性がのし上がっているには、それは男性化していくということでしかないのである。女性が女性性のまま社会に進出できない、男性性を疑似的に演じなければヒエラルキーを上り詰めることができない。21世紀の社会もまだまだそういう男性社会が継続しているのだ。

 自分の身近でも女性で頑張ってきた人を何人か知っている。女性で経営者となった人たちだけど、みなプライベートをつぶし仕事にのめり込んできた人たちだ。割と仲の良い友人の一人はよく、「結局男と同じ仕事をしていてもダメ、男以上に仕事して成果をださないと認めてくれない」と話していた。そのとおりだと思う。

 女性が女性であることを捨て、仕事の面では男性として生きる。そして男性以上に働かないと、男性を凌駕するような才能を持っていないと評価されない。自分はそれになんて答えるか。「まあ男性社会は2000年以上続いているから、そう簡単には変わらないだろうね」と。

 

 ターはまさに男性化した才能あふれる女性なのである。その彼女がやっと手にした頂点から男性が告発されるのと同じパターンで転落していく。この映画のケイト・ブランシェットの男性的演技はどこかギミック的でもある。この人の過剰な演技、雰囲気は、いつもどこかギミックである。『キャロル』もある意味オッさん的だったし、『ハンナ』のCIAエージェントもそうだ。

 女性に男性を演じさせるある種の倒錯性。そしてそのまま男性として負の部分をギミックに示す。そういう風に見えてしまうところがこの映画のシンドイところだ。

 

 実際、この映画に関してフェミニストはどう反応しているのだろう。自身が女性指揮者であり、レズビアンでもあるマリン・オールソップはこの映画に対して否定的なコメントを発している。

「ターの多くの表面的な側面が、私自身の私生活と一致しているように思えました」とオルソップはタイムズ紙に語った。「しかし、一度見てからは、もう気にしなくなり、腹を立てました。私は女性として、指揮者として、レズビアンとしてとても腹を立てました。」

Marin Alsop, real conductor mentioned in 'Tár,' slams film - Los Angeles Times

(閲覧:2024年1月15日)

マリン・オールソップ - Wikipedia  (閲覧:2024年1月15日)

 

 もう一つこの映画の中で、多分ジュリアードでの公開講義かなにかで、ターがアフリカ系の若いゲイの学生を叱責するシーンがある。学生はバッハを女性差別主義者なので好きになれないと言ったため、ターは学生を徹底的に言葉で痛めつける。ターからすれば作品と作者のパーソナリティは別ということなのだ。この叱責シーンが盗撮されていて、後半でターの告発のために使われる。

 このシーンもまた現在のLGBTに対するギミックのような感じがする。実際の指揮科や作曲科のコースで、学生がバッハの性癖を理由にその音楽を評価しないと述べれば、教官はたぶんその学生をつまみ出すに違いない。同様にモーツァルトは性格がお下劣であるとか、チャイコフスキーの性癖をあげつらったりすれば・・・・・・。

 作品と作者のパーソナリティは別、たぶんずっとそうだったのだろうが、キャンセル・カルチャーの時代ではそれも危ういかもしれない。よく我々は、この表現は20世紀だったらOKだが、今の時代ではOUTという物言いをする。実際、多様性やLGBTフェミニズムの観点から、時代性だけに免罪符を与えることは難しくなっている。

 ひょっとしてあと10数年もしたら、反女性主義者という理由でバッハは禁じられるかもしれない。まあ、あり得ないとは思うが。

 問題はそういうことも含んでいるが、それとは違う。この映画がLGBTをこのようにチープなギミックにして描いているところなのである。それはターを過剰に男性的に描くことと同様である。ようするに多様性への逆張り的な悪意性があるのか、ないのかというところなのである。

 自分は皮相的な人間だ。なので皮相的にこの映画の悪意性を感じた。映画としてはよく出来ている。見応えもある。でも悪意が・・・・・・。

 

【考察】映画『TAR/ター』あらすじ・感想(ネタバレ)/トッド・フィールドが描くリディア・ターという天才芸術家の繊細なポートレイト - デイリー・シネマ

(閲覧:2024年1月15日)

<考察>『TAR/ター』をニューロティック・ホラーとして読み解く | CINEMAS+

(閲覧:2024年1月15日)

 

(閲覧:2024年1月15日)

最近観た映画のこととか

80 For Brady: エイティ・フォー・ブレイディ

https://www.netflix.com/jp/title/81649297?source=35 (閲覧:2023年12月1日)

80 for Brady - Wikipedia (閲覧:2023年12月1日)

 リリー・トムリンとジェーン・フォンダの共演映画なので、例の配信ドラマ『グレイス&フランキー』の特別版と思いきや、新作映画でした。タイトルのブレイディはNFLのスーパースターであるクォーターバック、トム・ブレイディのこと。ようはトム・ブレイディを応援する80代のおばあちゃんたちを描いた作品。

 この映画はトム・ブレイディ自らが制作し本人役で出演もしている。彼は昨年まで現役でプレー(45歳)していて、引退後は映画界に転出する意向もあるようで、これはその第一回作品ともいえる。彼はスーパーボウル制覇7回、スーパーボウルMVP5回という、フットボール界のレジェンド、超スーパースター。まあ今風に例えていえば、大谷翔平と山本由伸を足してイチローで割ったような選手というところか。

トム・ブレイディ - Wikipedia  (閲覧:2023年12月1日)

 

 そのブレイディのファンとして今回の映画でハチャメチャな活躍をするこちらもレジェンド女優たちもすごい。

リリー・トムリン(84歳)

リリー・トムリン - Wikipedia  (閲覧:2023年12月1日)

ジェーン・フォンダ(85歳)

ジェーン・フォンダ - Wikipedia (閲覧:2023年12月1日)

リタ・モレノ(91歳) (閲覧:2023年12月1日)

リタ・モレノ - Wikipedia

サリー・フィールド(77歳) (閲覧:2023年12月1日)

サリー・フィールド - Wikipedia

 

 アカデミー賞主演女優賞2回受賞しているのがジェーン・フォンダサリー・フィールド助演女優賞受賞がリタ・モレノ。リリー・トムリンは『ナッシュビル』で助演女優賞ノミネートだが、この人はもともと女優というよりもコメディエンヌの人。まあいずれも錚々たるキャリアの大女優。この4人をが同じスクリーンにおさまっていること自体が、80年代あたりだったらちょっと考えられないところ。

 おそらくトム・ブレイディの映画界デビューみたいな企画モノなので、4人とも出演OKしたのではないかと適当に想像する。

 映画的にはどうか。まあ突っ込みどころは満載かもしれないが、4人の名女優がハチャメチャしてくれるだけで楽しい。そういう映画だと思う。そこにスーパー・スターのトム・ブレイディが出ているのだから。アメリカでの興行収入も4000万ドルを超えているということでヒット作といえる。日本だとアメリカンフットボールの人気は今ひとつだし、往年の名女優目当てというのも正直どうか。まあネット配信がせいぜいだろう。

 今どきの映画ファンからすると4人の大女優はどんな感じか。さすがに80超えとなると、ジェーン・フォンダ、誰それみたいな感じだろうか。逆にリタ・モレノは90超えでもスピルバーグがリメイクした『ウェスト・サイド・ストーリー』に出ているということで、知ってる、知ってるみたいな感じかもしれない。

 しかし4人とも若い。リタ・モレノも90超えでスローなダンスをこなすところなども見事だし素敵である。往年のミュージカル女優健在というところか。そしてジェーン・フォンダは85歳には見えないプロポーション、この人80年代にワークアウトとかで身体鍛えていたけど、いまだに節制しているんだろうか。なんかもう後期高齢者のアイドルみたいな感じがする。

 そして意外だったのは、サリー・フィールド。最初なんとなく彼女かな、でも違うかなと思いつつ観ていたのだが、やはり彼女でした。80超えメンバーに入るには少々若いかと思いきや、役柄でも唯一70代という設定で、「私、まだ70代」というセリフもあった。しかしこの人も変わらないというか。確か1989年に『マグノリアの花たち』でジュリア・ロバーツの母親役を演じたときには、老け役挑戦みたいに思ったりもした。実際には21歳上だからそれなりの必然性はあったけど。

 そのサリー・フィールドジェーン・フォンダやリリー・トムリンと肩を並べるというのもなんとなく面白いというか。70年代だったら、どこか小娘然としていて、ジェーン・フォンダあたりからすると貫禄が違うみたいな雰囲気もあったかもしれないけど。

 まあみんないい感じで歳をとっていて、80超えというのはさすがにキャリア的にどうかと思ったりする部分もあるが、先進国はどこも超高齢化社会でもある。元気な80代、90代がまだまだ活躍するというのが当たり前になっていくのかもしれない。

 とりあえず『80 For Brady』は個人的に楽しめる映画だった。

MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない

https://www.netflix.com/jp/title/81724703?source=35

(閲覧:2023年12月1日)

 多分、Netflixで観た。というか最近はアマプラで観たのかNetflixで観たのか、あまり意識していないというか、観終わったそばから忘れていることが多い。

 小さな広告会社のオフィスを舞台に、同じ一週間が繰り返される。じょじょにタイムループしていることに気づく社員が増えていく。でも上司はそれに気づかない。社員たちは上司にそれを理解させればタイムループから抜け出せるのではないかと悪戦苦闘する。

 広告会社らしく会議と称して上司に対して、自分たちが何度も同じことを繰り返していることを説明するためのプレゼンを行う、パワポを駆使して。上司はなかなか理解できないが、じょじょにプレゼンの効果はあがっていく。当たり前だ、プレゼンはもう5回目だ・・・・・・。タイムループなどあり得ないという上司に対して、数字を示す。仕事の効率が飛躍的に上がっています。当たり前だ、毎週同じことをやっているのだ。

 仕事は基本ルーチンだ。毎日、毎週、同じことの繰り返し。それをタイムループさせるというのは、まあありきたりの発想だが、それを広告会社の仕事ということに落とし込んだところが面白い。けっこう笑える映画だとは思った。

MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない - Wikipedia

(閲覧:2023年12月1日)

 監督は竹林亮、当然知らない人。これまでに『14歳の栞』という作品を1本撮っているとか。そして俳優陣もマキタスポーツ以外はまったく知らない人ばかり。まあこちらが最近の映画に疎いというのもあるけど、普通に無名の役者陣だと思う。多分、劇団所属の人たちだろうか。普通にいい演技していると思う。

 そして主演の円井わん。この人も初めて知る。美人ではない。普通にどこにでもいそうな若い女性。その分、映画にリアリティがある。でも演技はしっかりしているし、様々な顔を持っていそう。基本、性格俳優として脇を固めるタイプだけど、このリアリティはけっこうバケそうな気もする。プロフィールをみるとうちの子どもとほとんど同い年。どんどんと新しい才能が出てくるということか。

円井わん - Wikipedia (閲覧:2023年12月1日)

 

 映画は破綻なく観ることができた。多少、中盤から後半にかけてダレ場もあったかもしれない。上司のかっての夢—未完に終わったマンガを完成させるためにオフィスの全員がマンガ制作に勤しむ—、これってもう少しひねりがあっても良かったかなと思わないでもない。まあいいか。

 とりあえず無名の監督、無名の役者陣(多分)の低予算映画に分類されるのだろうが、オフィスという小さな空間を舞台にするという設定で逆手にとった感じ。けっこうお勧めというか、1時間22分面白おかしい時を過ごせる。