玉堂美術館 (11月3日)

 この美術館を訪れるのは4回目。前回行ったのは去年の8月なので、ずいぶんと間が空いた。春先に行くと六曲一双の見事な《紅白梅》が観ることができるのだが、今年は都合がつかなかった。

 この美術館は季節ごとにテーマを決めて玉堂の作品を展示している。去年の夏は「水」がテーマだったが、今回はというと「山」をテーマにした作品だった。

玉堂美術館 只今の展示 :: 玉堂美術館 Web :: 東京の奥多摩(青梅)にある美術館:: 日本画の川合玉堂作品を展示しております (閲覧:2022年11月4日)

 幾つかの作品は1~2度観たことがある。そのなかでもやはり目玉的なこちらの作品。

《峰の夕》 1935年

 刻々と夕闇が迫ってくる一瞬を活写したような作品。前景、中景、後景を空気遠近法によって描いている。この時、玉堂は62歳。画風はやや抑えた色調で円熟味を増してきた頃のように思う。

 今回観た玉堂作品は、特に年代順にもなっていないのだが、キャプションの制作年を見ると、玉堂はけっこう若い時期から完成された感じで、若さや、習作的なものが今回の展示に限っていえばまったくない。ぶっちゃけどれも上手いと思える作品ばかりだ。

 玉堂の代表作でも《行く春》は42~43歳の作品で、いわゆる壮年期の名作だが色遣い、明るい雰囲気など若々しさを感じる。それに対して30代の作品はというと、意外と抑えた色調であったり。それがまた60代半ばの頃にも同じ作風であったり。

 そして最晩年の80代の作品、枯れた墨だけの作品が多くなるかというと、とんでもない。この時期の作品は、岩肌、木々、山などのモチーフに過剰に描かれていたり、色彩も豊かだったりもする。老境にあっても玉堂さんは、けっこうサービス精神旺盛にてんこ盛りの作品描いていたような感じがする。

 そういう意味で画風の変化による技術の深みとか、そういう年代順に高まるのではない。それこそ画題やモチーフによって自在に画風を変えることができるような、そういう名人だったようになんとなく思った。

 川合玉堂は、京都で四条派望月玉泉の門に入り、その後円山派幸野楳嶺に師事しする。さらに上京して狩野派橋本雅邦に入門する。そういうキャリアとともに写実的な表現で山河を描いたということで、円山四条派と狩野派のそれぞれの表現を取り入れたという風に、美術史の本では解説される。さらにいえば、それまでの日本画における風景画が、粉本による中国神仙の山河の模倣であったのに対して、初めてリアルな風景を写実的に描いた。

 それまでの日本の絵画においては、洋画や浮世絵風景画をのぞいては、実際の風景を写実したものはなかったということだ。そこから川合玉堂といえば、日本の原風景を描いた画家といわれるわけだ。その技法は樹木の写実的な表現、山肌、岩肌には狩野派的な伝統描法、皴法が多様されるし、時にはたらし込みなども使う。そういう技術については長けた人だったのだろう。

 美術館のロビーでは玉堂の人となりを紹介する15分のビデオが流されている。玉堂の画業をまとめたものだが、そこでは生前の玉堂が写生をしたり、画室で実際に絵を描く姿が残っている。それを観ていると、本当に筆先を自在に使って一気に描いていく姿が映されている。下書きもなにもない画材にスラスラと筆先を滑らしている。名人といわれる人なのだから当然といえば当然なのだが、その自然体ともいう姿で描いていく様にはある種感動すら覚える。

 

 玉堂美術館の魅力はもちろん川合玉堂の絵ではあるが、もう一つは庭園であり建物自体の美しさにある。ウィキペディアの記述によれば設計は吉田五十八である。数寄屋造り建築の第一人者で、確か岩波茂雄の熱海の別荘惜櫟荘の設計を手掛けている。岩波茂雄が戦況が悪化する時期に、思い入れたっぷりに建てたその建物については、安倍能成が書いた岩波茂雄の伝記に写真が載っていた。その吉田五十八である。そして庭園を設計したのは造園家中島健。中島は吉田茂田中角栄の邸宅の庭園を作庭した著名な人だ。ようするにこの美術館は由緒正しき名建築物なのである。

 まだ紅葉の見頃には早いが、ところどころに黄色や朱に染まった木々が散見する。もう1~2週間すれば、周囲の御岳渓谷ともども美しい紅葉に囲まれることになるのだろう。

 家からは車で小1時間の距離である。この美術館にはこれからも季節の折々に訪れたいと思っている。

そろそろ紅葉の季節 (11月3日)

 そろそろ紅葉の季節である。

 ネットで調べると、名所といわれるところは11月中旬くらいからが見頃というところが多い。北から順に降りて来る感じなので、多分日光あたりは今が見頃なのかもしれない。きっといろは坂とか明智平はとんでもないことになっているのだろうか。

 去年、11月中旬に突発的に日光に日帰りで行ってみたけど、もう葉っぱはみんな落ちていて華厳の滝周辺はほとんど水墨画みたいな景色になっていたっけ。

日光の紅葉は終わっていた - トムジィの日常雑記

鳥居観音

 日光に行くならウィークデイということなんだろう。昨日は文化の日なのでメチャ混みまちがいなしで、とても出かける気にはならない。近場はまだ早いとは思ったのだが、幾つか調べていくと飯能の鳥居観音の紅葉は11月上旬から見頃ということらしいので、近くだしてということで行って見ることにした。ただここは北野武の映画でも使われたことがあるとかで、けっこう有名。休日なので難しいかと思ったけど。

鳥居観音

 昼少し前に家を出るという完全出遅れだったのだけど、道路は空いていて順調。道路は正式には県道70号飯能下名栗線というらしい。左手に名栗湖に行く道との分岐を超えるとすぐに鳥居観音の看板が現れるのだが、いざ付近まで行くと大渋滞。そのまましばらく待っていると、係の人がプラカードを持っていて、そこには90分待ちとある。

 やっぱりね。

 時間は1時を回ったくらい。さてどうするか。係の女性にいくつか聞いてみると、車を停めてから平和観音あたりまではずっと登りでけっこう歩くという。車椅子だとけっこうきつそうな感じもしたし、90分待ちはちょっと耐えられんなあと思い、引き返すことに。隣でカミさんは待ってもいいとは言っていたけど。

名栗湖

 引き返してとりあえず名栗湖の方に行って見る。ここは有間ダムによる人造湖。特に駐車場はなく、有間ダムの上の道路の片側にみんな車やバイクを止めている。こちらも一度奥まで行ってから引き返して駐車スペースがあったので止める。しかしここはダム湖があるだけでなんもない。ダムの下の方は急斜面の空き地になっている。ふと遠く、下の方に鹿がぴょんぴょんと跳ねながら脇の山林の方に消えて行った。まあそういうところのようです。

 ちょっとだけダムを散策もすぐに撤収。途中のキャンプ施設のノーラ名栗に寄って、トイレ休憩。売店でまんじゅうを買う。それからネットで検索すると、山道を通ると青梅や奥多摩に意外と近いことがわかる。そういえば玉堂美術館もしばらく行ってないなと思い、ナビにいれてみると30分もかからないで着くということで行って見る。

玉堂美術館

 山道を通って長めのトンネルを二本抜けるとすぐに軍畑に。それから少し走るとすぐに玉堂美術館に。駐車場はさすがにけっこう混んでいて、駐車スペースは2~3台開いているだけ。でも美術館の館内はいつものように空いている。止めている車はみなさん御岳渓谷の散策をされているようです。こんな感じのところです。

 玉堂美術館の感想は別に記す。現在は山の特集ということで、山を題材にした絵を集めて展示してある。といっても川合玉堂の絵はたいてい、奥多摩附近の山河を題材にしたものなので、ある意味平常運転みたいなものか。

 この美術館は家からせいぜい1時間くらいで行けるので、年に1~2回行っているのだが、なぜか今年はこれがお初。ちょっと振り返ると去年の8月に行って以来でした。

奥多摩湖小河内ダム

 玉堂美術館には1時間半くらい滞在。その後はお約束で奥多摩湖に行ってみることにした。時間はもう4時近くになっている。そのまま都道184号を上り愛宕大橋で国道411号に合流。もう下りは帰る車で渋滞しているけど、上りはガラガラである。

 小河内ダムについて駐車場はというと、いつもはウィークデイの夕方に行くことが多いのでガラガラだけど、昨日はさすが文化の日、4時を回っているのに駐車場は満車状態。数台が道路で待機していてその後ろにつける。もっとも帰る車が順に出て行くので、1台ずつ入る感じ。

 駐車場に入るとずいぶんと遠目のところを案内されそうだったので、近場の身障者スペースを見やると1台分空いているので、係のおじさんに「あそこに入れますか」と聞くと「あれは身障者の人ようだから」と。「あっ、うちは身障者なんで」と話して案内をしてもらう。フロントガラスにつけてある車椅子マークとかは見てくれていないみたい。まあよくあることなので気にしない、気にしない。

 いつもはたいてい閉まっている、奥多摩水と緑のふれあい館にも入ってみる。もっとも食堂や4時半で閉まり、館自体は5時で終了とか。妻がトイレを使ったくらいで早々に出る。

 そして小河内ダム。時間的にはもう5時近くで薄暗くなっている。まあここを訪れるのはたいていこの時間。ダム上の道路は広くて平坦。妻が短い距離を歩いたり、車椅子を自走したりしている。ここは割と妻のお気に入りのようだ。

 気がつくとあたりはかなり暗くなってきていて、ダム上で散策していた人もほとんどいなくなっていた。こっちも駐車場に戻ると、車はまだけっこう止まっている。これからやってくる車も1~2台ある。だいたいがカップルのようで、ちょっとしたデートコースといったところだろうか。

 帰りはというと、けっこう渋滞していたのだけど、来た道と同じ愛宕大橋を右にそれて都道184号に入るとこっちはガラガラでスムースに降りて来る。その後はこれも来た道同様に山道を通って飯能に抜けてから帰った。

 

 まあ結論的にいえば、名栗や奥多摩はまだ紅葉にはちと早い感じで、おそらく11月中旬以降が見頃のようだ。90分待ちで断念した鳥居観音は興味はあるけれど、多分今年は行かないだろうなと思う。でもって、来年は・・・・・・、多分行かないような気がする。もっともまだ観ていない北野武の「ドールズ」を観たら気が変わるかもしれないけど。

川越市立美術館~小茂田青樹展 (10月30日)

 お目当てというほどではないけれど、川越市立美術館で開催されている小茂田青樹展に行って来た。

 実は小茂田青樹という人のことはほとんど知らない。作品は確か東近美で観た《虫魚図巻》あたりを印象的に覚えているくらい。なのでどういう画風の人で、誰の影響を受け、誰に影響を与えたとか、美術史的な位置づけとかそのへんまったく判らない。もっともニワカで美術館巡りしているので、たいていの画家はみんなよく判らないのだけれど。なのでまずは簡単におさらいをする。

小茂田青樹(1891-1933)

小茂田青樹 - Wikipedia (閲覧:2022年10月31日)

 初めて知ることばかりだけど、川越出身のバリバリご当地画家だった。その割には埼玉県立近代美術館とかではあまり見かけない。ググると地元のこの川越市立美術館がかなり多くの作品を所蔵しているみたいである。

小茂田青樹の絵画作品一覧と所蔵美術館 (閲覧:2022年10月31日)

 小茂田青樹は入間郡川越町に生まれ、松本楓湖(1840-1923)の安雅堂画塾に入門、兄弟子に今村紫紅、同日に入門して終生友人にしてライバルだったのが速水御舟今村紫紅の主宰する赤曜会に参加、その後は主に再興院展で活躍。咽頭結核のため41歳で早世したという。

 画風は松本楓湖ゆずりの写実を重視したもので、キャリア当初は詩情あふれる風景画を得意としていた。キャリアの半ばより花鳥画を描き、装飾性と写実を融合した独自の画風を確立したという。

 41歳で早世したというが、兄弟子の今村紫紅(1880-1916)も35歳で亡くなっているし、速水御舟(1894-1935)も40歳早世している。師匠の松本楓湖が84歳と長命だったことを思うとちょっと微妙な気もする。紫紅、青樹、御舟、それぞれ20~30年長く生きていれば、日本画壇への影響、様々な傑作が生まれたかもしれない。

 松本楓湖はたしか菊池容斎の弟子で風景や人物の描写は写実を重視し、歴史画では有識故実を重んじたという。画塾では放任主義をとっていて、たくさんの粉本模写を揃えていたため、塾生は粉本をもとに切磋琢磨したという。

 あまりよく判ってはいなのだが、松本楓湖は一般的には今村紫紅速水御舟、小茂田青樹の師匠として知られる。こういうのは例えば小森靹音は安田靫彦の師匠、梶田半古は小林古径前田青邨奥村土牛の師匠みたいなのと一緒かもしれない。たまにそれぞれの作品に触れると、その画力とかに驚かされて「オ~」となることけっこうある。

 話を小茂田青樹に戻そう。今回の企画展川越市井100周年、川越市立美術館開館20周年の記念特別展で会期は10月22日から12月4日まで。展示作品は全65点、前期展示(10/22-11/12)60点、後期展示(11/13-12/4)60点となっている。

特別展最新情報/川越市 (閲覧:2022年10月31日)

小茂田青樹展 | 川越市立美術館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ

(閲覧:2022年10月31日)

気になった作品をいくつか

《麦踏》

《麦踏》 1919年  埼玉県立近代美術館

 1919年再興院展に落選してから1920年にかけて小茂田青樹は、狭山、松江、川越伊佐沼と転々としながら風景画の良作を制作する。この作品は狭山の金乗院の庫裡に奇遇した時期の作品。緑青と群青岩絵の具による表現は、写実を超えた詩情と幻想的な雰囲気があるように感じた。

《松江風景》

《松江風景》 1920年 東京国立近代美術館

 松江時代の作品。詩情豊かな浮世絵風景画のような、あるいはその影響を受けた印象派のような構図。この遠近感はどことなく西洋画風でもある。

《楽山新秋》

《楽山新秋》 1921年 山種不動産株式会社蔵

 これも松江時代の作品。緑の色彩感覚に優れた風景画。連なる民家と後景の山、どことなくセザンヌの造形美を思わせる。図録等ではあまり触れられていないが、小茂田青樹はかなり西洋画、特に印象派以後の作品を観ているのではないかと思ったりもする。

《振分髪》

《振分髪》 1913年  個人蔵

 青樹22歳頃の作品。第七回文展に出品するも落選。原三溪に買い上げられたもの。この頃より原三溪より毎月50円の援助を受けたとある。図録解説によれば風俗は江戸初期のもの、面貌は国宝《婦女遊楽図屏風 (松浦屏風)》などから学習したとされる。習作的ではあるが美しい作品。

牽牛花

《牽牛花》  1924年  川越市立美術館蔵

 図録によれば朝顔の花は写実に基づいているが、葉についてはその向きが表にしろ裏にしろ、すべて意図的に正面に向くように再構成されている。風景画から花鳥画に、写実表現に装飾性を取り混ぜるような、青樹のキャリア中盤からの画風の方向性を示す、転記となる重要な作品だという。

《秋草に少女》
《秋草に少女》1926年 川越市立美術館蔵    《秋草に少女》1926年 ㈱ヤマタネ

 同主題、同タイトルで描かれた三点のうちの二点。少女の着物、野草、蝶の姿などに相違がある。右の絵の少女の着物の表現はいわゆる「たらしこみ」が多用されている。

緑雨

《緑雨》 1926年 五島美術館

 緑の色彩表現に優れた作品。心に残る。図録にはこの緑の明暗による画面作りを称して「緑画とでも呼びたい」とある。言い得て妙と感じた。

《秋晴(梢秋)》

《秋晴(梢秋)》 1926年 川越市立美術館蔵

 実はこの作品が一番気に入ったかもしれない。柿の木にとまる百舌鳥を描いた作品。なんとなく瞬間的に古径かなと思った。もちろん根拠はあまりない。小林古径とは、今村紫紅主宰の赤曜会に、古径が加わったことから交流があったのではないかと思う。古径は1883年生まれで青樹より8つ上でどちらかといえば紫紅に近い。青樹が紫紅から大きな影響を受けたのと同様、古径からも学んだ可能性はあるかもしれない。

虫魚図鑑

《虫魚図鑑》部分「夜露」  1931年 東京国立近代美術館

 おそらく小茂田青樹の一番有名な作品かもしれない。青樹の晩年の代表作で6図の1巻もの。

① トノサマガエルが水溜まりに群がる・・・・・・・・「蛙」

② 闇夜に咲く薊やドクダミと露に濡れた女郎蜘蛛の・・「夜露」

③ 鯉と金魚が水中を泳ぐ・・・・・・・・・・・・・・「鯉子と金魚」

④ 蛾、虫、雨蛙が灯に集まる・・・・・・・・・・・・「灯りによる虫」

⑤ 鰻と鰌がうねる・・・・・・・・・・・・・・・・・「鰻と鰌」

⑥ 軒下に蜘蛛が巣を張る・・・・・・・・・・・・・・「宵子」

 期間中に場面替えがあり、今回観たのは①~③なので多分これが前期展示。後期展示は④~⑥となるようだ。もっとも有名な作でもある「夜露」を観るのであれば、前期展示の11/12までに行くべきかもしれない。ここ4~5年でいえば東近美には年に4~5回程度行っているけれど、この作品に接したのは1~2回あるかないか。名画との出会いは一期一会みたいな部分もある。

 「夜露」は写実の中に幻想的な雰囲気、下部の草花の装飾表現など、これぞ小茂田青樹とでもいえるような作品。

 ちなみに④の「灯りによる虫」はあきらかに御舟の作品にインスパイアされているかもしれない。

 

 川越市立美術館を訪れるのは、去年9月の花村えい子の回顧展以来かもしれない。今回の小茂田青樹展は展示作品の点数などからもかなり力の入った展覧会。ご当地の画家であり、コレクションも充実しているだけに、まさに川越市制施行100周年、美術館開館20周年記念に相応しいといえる。出来れば会期中1~2回は足を運びたいと思っている。

川越散策と御朱印 (10月30日)

 妻と二人で川越に行って来た。

 今回も電車で川越市まで行き、そこから徒歩でぶらぶらと歩いて回った。

 川越の蔵造りの街並みとかそのへんを周遊するときは、たいていこのパターンで妻の車椅子を押して歩く。今年はたしか4月に新河岸川沿いの桜を見に来た。そして名所廻りだと去年の10月以来、ちょうど1年前ぶりくらいになる。

川越周遊パート2 - トムジィの日常雑記

 振り返ってみると、去年は蔵造りの町並み、まつり会館、東照宮喜多院氷川神社とけっこう回ったみたいだ。今回は、一応目的が市立美術館に行くということもあり、最初から蔵造り周辺はパス。川越市駅から本川越駅まで歩き、そこからまず喜多院を目指して歩くことにした。

 喜多院へ行く途中で東照宮に寄る。これも前回同様。

 東照宮は日光と久能山が有名。三大東照宮の残りの一つの座については岡崎滝山、上野、川越仙波が競っているようだ。一応、岡崎滝山が有力説があり、規模からいえば上野が圧倒的。ということで川越はちょっと分が悪いってところか。

 小さな鳥居をくぐるとすぐに急な石段が続く。前回は一人で上ったのだが、今回妻は手摺を使ってチャレンジすることに。自分はすぐ下について行くようにする。

 今回はせっかくだから御朱印を集めようと思っていたのだが、ここでは賽銭箱の隣に置いてあるだけ。初穂料300円は賽銭箱に入れるようにと但し書きがついている。勝手に持っていく人いるんだろうかとなどと思いながら、賽銭とは別に300円を賽銭箱に。

仙波東照宮

 東照宮の境内から喜多院には地続き。途中は庭園風で、池にかかる太鼓橋やその先には小さな祠があったりする。吊り橋とか橋が好きなカミさんはどうしても渡るというので、狭い道を車椅子を押して橋の前まで行く。

 

 喜多院は去年とほとんど雰囲気は一緒。前回行ってないので、春日局化粧の間や五百羅漢を見にいこうかと思ったのだが、入り口までがけっこう厚く砂利が敷き詰められていたので、ちょっと車椅子の前輪をあげて入ってみたけど、まったく身動きとれなくなる。なので断念。ここには縁がないということで。

 喜多院の境内には晴れ着を着た小さな女の子を連れた家族が何組か。そうか、ちょっと早いけれど七五三なのである。女の子たちは多分三歳児たちでみんな可愛い。

 喜多院でも初穂料500円也で御朱印をいただく。

喜多院

 それから目当ての川越市立美術館を目指して歩くことにする。これも去年通った道筋で、だいたいの方向はわかる。所々に案内の看板が出ているので迷うこともない。

 川越城本丸御殿の手前にある三芳野神社の境内を通る。いちおうここでも参拝して御朱印をいただく(初穂料300円也)。ここは「通りゃんせ」発祥の地なのだとか。

 

三芳野神社

 お参りしたあとで、喜多院参道にある亀屋妙喜庵亀屋十吉で買った一個320円くらいのバターどら焼きを、境内のベンチに座って食す。こんなやつ。

 

 一人が車椅子、一人がベンチに座ってどら焼き食べる老夫婦。周りで遊んでいる子どもたちや通り過ぎる観光客からは、どう映るんだろうね。

 

 その後は川越市立美術館で小茂田青樹の回顧展を観る。

 閉館ぎりぎりの5時までねばって外に出ると、なんとなく薄暗くなってきた。それから蔵造りの町並みを抜けて川越市駅まで歩く。日曜日だけど5時過ぎともなると、お店は店じまいしているところがほとんど。観光客もだいぶ減っている。コロナの様々な規制も解除されているので、日中は相当の人出があったかもしれないけど、こちらは住宅地や路地をずっと歩いていたので、そういうのは実感できなかった。

 市立美術館から札の辻まで歩いて左折。お約束の時の鐘や夕暮れの町並みの写真撮ったりしてのんびりと歩く。

 

 

 帰りにどこかで夕食を取ろうかと思ったが、妻はその週にデイサービスで体重測定があるのでダイエットモードなので外食はパスすることに。悲しき女心か。でも、さっきのバタどらはなんだったんだろう。

 帰宅後、スマホのヘルスケアで確認すると歩行距離は9.6キロだとか。まあまあ歩いたというところか。

栃木県立美術館「印象派との出会い」 (10月22日)

印象派との出会い-フランス絵画の100年 ひろしま美術館コレクション」展

 栃木県立美術館印象派との出会い-フランス絵画の100年 ひろしま美術館コレクション」展の初日に行ってきた。

 ひろしま美術館はフランス近代絵画のコレクションでは国内有数の規模を誇っている。2019年にポーラ美術館との共催で「印象派、記憶への旅」展が開かれ、ポーラ美術館でその名画揃いのコレクションの観た。また、これまであちこちの美術館で開かれた印象派関連の展覧会でも、ひろしま美術館所蔵品の展示もあった。その良質なコレクションにいつかひろしまへ行きたいと思ってはいたがいまだ果たせずにいる。

 今回のひろしま美術館コレクション展は、熊本県立美術館(4/15-6/5)と栃木県立美術館の二館で開催されるもので、栃木県立美術館では10月22日から12月25日までの開催となっている。なお展示作品は65点となっている。

企画展 印象派との出会い―フランス絵画の100年 ひろしま美術館コレクション|栃木県立美術館 (2022年10月23日閲覧)

 この企画展開催を知ったのは割と最近のことだが、ひろしま美術館のコレクションを関東圏で観ることできるということで楽しみにしていた。初日ということでけっこう混んでいるかと思ったが、そういうこともなくちょっと拍子抜けみたいな感じもあった。小中学生の集団がいたけれど、それも20~30人で多分美術教室かなにかの一団かもしれない。数人ずつのグループで静かに鑑賞されていたので、まったく気にならなかった。 

 しかし地方の県立美術館としてはけっこう大型の企画展だし、聞けば栃木県立美術館開館50周年記念ということなので、もう少し初日の人出あってもいいのかなと思ったりもした。栃木県民の皆さん、選りすぐりの名画を観る良い機会ですよと宣伝したくなってしまう。

 出品点数は展示リストによると66点でうちピカソの1点が熊本のみの展示だという。試しに2019年にポーラ美術館で開かれた「印象派、記憶への旅」展で観ているものにチェックをつけていくとジャスト20点。ドラクロアクールベブーダン、モネ、シスレールノワールセザンヌゴーギャンマティスといった有名どころはだいたい観ているものということになるようだった。

 

 いつものように気にいった作品をいくつか。

モネ

《セーヌ河の朝》 クロード・モネ 1887年

 多分、ひろしま美術館にとっても一番人気のある作品ではないかと思う。モネが《セーヌ河の朝》の連作に取り組んだのは1896年、1897年で約20点の作品があるという。個人蔵が数点ある他、ボストン美術館オルセー美術館などが所蔵しているが、このひろしま美術館所蔵品はその中でとりわけ美しい作品の一つだと思う。

 モネの《セーヌ河の朝》についてはこのサイトが詳しい。

モネlog: 「セーヌ河の朝の連作」大気の雰囲気の描写 Ⅰ

モネlog: 「セーヌ河の朝の連作」大気の雰囲気の描写 Ⅱ

モネlog: 「セーヌ河の朝の連作」大気の雰囲気の描写 Ⅲ (2022年10月23日閲覧)

シスレー

《サン・マメス》 アルフレッド・シスレー 1885年

 この作品もおなじみである。ポーラ美術館展でも観ているが、たしか2015年に練馬区立美術館で開かれた「シスレー展」でも観ている。そのときどきで思っていることだが、これぞシスレー、これそ印象派という作品だ。光に移ろう景色、前景の土手の草木、水面のきらめき、後景の建物や対岸、筆触分割による明るい屋外の風景をとらえている。モネやルノワールの印象と表現上の深みはない。多分、並べて見るといささか凡庸な部分があるのかもしれない。しかし印象派の風景画とはこれである。

セザンヌ

《曲がった木》 ポール・セザンヌ 1888-90年

 これも多分ポーラ美術館で観ているはず。その頃にはなんとなくいつものセザンヌみたいに流して観たような気がする。今回改めてよく観てみると、この絵の構図や筆致が相当な計算のもとあることがなんとなく判るような気がする。

 前景の二本の木のクローズアップは、浮世絵の所謂近像型構図だ。中景の赤い屋根の家、そして木々の葉の間からのぞく山へと奥行のある構図となっている。さらにはこの絵の曲がった木と後景の山が呼応するかのように右に流れていく。それを促すかのように、木々の葉の筆触が右に傾いて視線を曲がった木の方向、後景の山へと促している。

 印象派の筆触分割が観る者の視覚混合を促すとすれば、セザンヌの筆触は構図を補完するような意図を感じさせる。薄い色合い、濃い色合いによる遠近感の演出、垂直であったり、斜線のように斜めの筆触によって視点を一定の方向に促すなどなど。

 今回7~8メートル離れてこの絵を観てみる。すると色あいとは別の視覚混合のような作用を感じられた。独特の遠近感も。セザンヌ恐るべしみたいな感じである。

ポン=ヌフ三題

 ポン=ヌフはセーヌ河にかかるパリ最古の石橋で、ノートルダム寺院のあるセーヌ河の中州シテ島の先端を横切って左岸と右岸を結んでいる。ポン=ヌフを題材にした作品が三点出品されている。

ピサロ

《ポン=ヌフ》 カミーユピサロ 1902年

 ピサロ最晩年の作品である。1900年頃からピサロは身体をこわし、屋外での絵画制作が難しくなっていた。この頃、この橋を見下ろせるアパートで制作を行っていて、その中の一つとされている。印象派のリーダー的存在で、かってはセザンヌと一緒に屋外制作をしたり、スーラの点描をいち早く理解し、自らも点描画法にチャレンズするなど進取気鋭な人でもあったが、キャリアの後半は印象派の技法に回帰している。

 ピサロシスレーとともに生前はあまり評価されず、自分の評価がモネやルノワールに比べて低いことをこぼすような手紙を、同じく画家であった息子に送っていたりする。しかしこの人もまたある意味では、印象派の代表ともいうべき人だったと思う。ただし、今回の企画展でもこの絵の隣にルノワールの風景画《パリ、トリニテ広場》が展示してあったが、二つを比べると表現の深みというか、なにか一目瞭然とするものがあった。ルノワールの描く木々の深みに比べるとピサロの表現はいかにも平板な印象がある。そういうものなんだなと思ってしまった。もちろんニワカ鑑賞家の思いつきの類ではあるけれど。

シニャック

《パリ、ポン=ヌフ》 ポール・シニャック 1931年

 ポン=ヌフの右手奥にはシテ島ノートルダム寺院やサント・シャペルの尖塔が描かれている。明るく鮮やかな色彩は、パリの風景というよりもさながらサン=トロペの明るい光のようでもある。

 シニャックは1935年に71歳で没しているので、この作品もまた晩年のものといえる。最後まで点描表現に拘り続けた人だったということか。適当な想像だけど、この絵はパリでスケッチした後でサン=トロペで制作したということはないだろうか。この明るさはパリというよりも南仏のそれのような気もしないでもない。

アルベール・マルケ

《ポン=ヌフとサマリテーヌ》 アルベール・マルケ 1940年

 この絵もポーラ美術館で観た大好きな作品だ。マルケはフォーヴィスムの画家といわれるが、早い段階から鮮烈な色彩からこの絵のような落ち着いた色合いの画風に変わっている。なのでフォーヴというとちょっと首をかしげたくなる。

 この絵はセーヌの左岸からシテ島を横切って右岸へと向かうポン=ヌフと、後景に1970年に創業したサマリテーヌ・デパートを描いている。なんでもデパート経営者から制作の依頼を受けていたという。

 マルケはピサロと同じく、ポン=ヌフ、シテ島を望むアパートで暮らしていて、俯瞰からの景色を繰り返し描いている。しかしポン=ヌフを走る車やバスを描いているのに、躍動感やスピード感のようなものが一切なく、車も歩道の通行人もみな静止しているような印象を受ける。これはマルケ独特の落ち着いた色合いのせいだろうか。

エドガー・ドガ

《浴槽の女》 エドガー・ドガ 1891年

 ドガは「浴女」という画題多くの絵を描いている。私的な空間での湯浴みという行為をとらえた作品は、不道徳と批判されたという。しかし日常的な行為の切り取ったスナップショットのような作品は、ある意味親密的でもある。妻マルトの入浴する姿を頻繁に描いたピエール・ボナールは、ドガのこうした作品を参考にしているのではないかと、適当に思っている。

 ドガは描く対象に対して親密的な感情というよりは、どこか冷徹な目で観察するようにして描いている部分がある。流行りのCM的にいえば「そこに愛はあるんか」といえば、多分そういうウェットな感情がないような気がする。実は親密派と称しながらも、ボナールも妻マルトを描く際に、どこか冷めた視線を寄せているような。まあこれも適当な思いつきである。

ピエール・ボナール

《白いコルサージュの少女(レイラ・クロード・アネ嬢)》 ピエール・ボナール 1930年

 これは初めて観る作品。実は今回の企画展で最も気に入った作品でもある。青を基調として、白、青、紫のグラデーションとなっている背景、少女の着る衣服は青みがかかった白、椅子の黄色の縞と少女のスカートの縞との呼応。印象派的色彩表現をボナールはこんな風に昇華させていく。まさい色彩の魔術師というところか。

 ボナールをピカソはけちょんけちょんにけなし、マティスは賛美したという話を、たしか東近美での作品解説かなにかで読んだ記憶がある。この絵を観るとその理由がわかるような気がする。この絵の色彩は、ピカソが描かなかった範疇のものだ。天才ピカソはどんな絵も多分描くことができる。でもボナールのこうした色調の絵だけは描かないだろうし、描けないのかもしれない。

 まあマティスは多分、もっと明るい赤を基調にして、独自の平面的かつ装飾的な形で軽くクリアしていきそうな気もする。

 それにしてもこの絵の色彩の妙。自分がボナールの絵が好きなのは、こういう作品に触れることができるからかもしれない。

ヴュイヤール

《アトリエの裸婦立像》 エドゥアール・ヴュイヤール 1909年

 これも初めて観る作品。ヴュイヤールといえばボナールとともにナビ派、親密派として知られる。どちらかといえば意図的に平板な絵を描く人という風に認識していた。しかしこの絵の奥行、立体感はちょっと驚きだ。透視図的な作画である。色合い的にはいつものヴュイヤールの色調である。図録によるとこのくすんだ光沢のない雰囲気は、絵具を膠で溶いた一種の泥絵具(デトランプ)で描いているのだとか。支持体も紙であり、この絵は紙本彩色なのである。

 以前、ヴュイヤールが鮮烈な色彩で描いた自画像を観たことがある。そのときにこの人、ナビ派というよりもフォーヴィスムと思っりもした。その一方では、くすんだ色いあで落ち着いた雰囲気の中で長く同居した母親をモデルにした作品を多数描いている。まさにアンティミストなのだが、今回の絵のように奥行き感のある作品も描くことができる。かなり幅のある人だったのではないかと思う。

 今回の企画展ではボナールの次にインパクトがあったのがヴュイヤールだ。

キスリング

ルーマニアの女》 モイーズ・キスリング 1929年

 この絵の色合い、背景のもやっとした感じ、人物と表情、衣服のきりっとした明瞭さ、特に衣服の刺繍の鮮やかさ、ときにどぎついまでの色調をみせるキスリングにしてはちょっと意外とも思えるような美しさがある。これはこれまで観てきたキスリング作品のなかでも上位にいくなあと思う。自分的には池田20世紀美術館で観たキスリングにしては抑えた色合いの《女道化師》と一、二を争うくらいかもしれない。

スーティン

《にしんと白い水差しのある静物》 ハイム・スーティン 1922-23年頃

 キャプションの表記が「ハイム・スーティン」となっている。うん、これシャイム・スーティンだろっと思った。思わず監視員の女性に聞いてしまった。多分、学芸員に聞いてきたのだろうか、「ハイムでも間違いではないということです」という。

 図録でも「ハイム・スーティン」となっている。多分、ひろしま美術館ではそう表記することになっているのだろう。これは学芸員の拘りの類だろうか。

 芸術家の表記はけっこう美術館によって違っている。ホセ・デ・リベラがフセペ・デ・リベーラであったり、アレクサンダー・カルダーがコールダーになっていたり。今回もその類なのだろう。ウィキペディアでもシャイム・スーティンはたしかに「ハイム・スーティンともいうようだ。

シャイム・スーティン - Wikipedia

 ただしシャイム・スーティンは横文字表記の場合は、Chaïm SoutineかChaim Soutineだ。ハイム・スーティンの場合は、Haim Sutinである。キャプションや図録でも表記にはChaïm Soutineとあり、それでいて日本語表記は「ハイム」である。

 正しくはこうですとか、発音を正確に聴くとこうですみたいな部分はあるのだと思うが、そういうのとは別に通例はどうかみたいなところで折り合いがつかないものかと思ってみたりもする。スーティンの場合、たいていの美術書では表記は多分「シャイム」だろう。もし、この企画展でこの画家の名を覚えた人は、多分当分の間は「ハイム・スーティン」だ。そして他の展覧会で絵を観てキャプションを見て、あれこの画家は「ハイム」でなくて「シャイム」なのかとなる。混乱である。人によってはいろいろ調べてみたりするだろうけど、多分一般的にはそのままになってしまうだろう。

 外国人の人名は発音とかにより表記が異なる。とはいえずっと使われている呼称というのは、たとえ発音的に難があってもなかなか修正は難しいのだ。今でも覚えているが、ロナルド・レーガンはある時期までロナルド・リーガンだった。かって彼が出演した映画のポスターやプログラム類は全部そうだ。あれはたしか大統領選に出馬するときに、マスコミが一斉に「リーガン」を「レーガン」に変更しますということで定着したのだ。

 そういうことでもない限りは、通例としての呼称をへんな拘りで変えるのは混乱の元ではないかなと思ったりした。まあ些末なことでどうでもいいといえば、そうなんだが。

お勧めの展覧会 

 とりあえず良質な展覧会なのでスーティン問題はまあどうでもいいことだとは思う。ひろしま美術館の充実したコレクションを関東圏で観ることができるなかなかない稀有な企画展。栃木県民だけでなく、近隣の方々なかなかないチャンスだと思うので、ぜひお勧めしたい。自分は期間中に出来ればもう一回くらいは行きたいと思っている。

東京国立近代美術館へ行く

 一ヶ月半ぶりの東京国立近代美術館(以下東近美)。

 リヒターも終わり次の企画展は11月1日から大竹伸朗展が始まる。ということで常設展示だけをゆっくり観ることができる。常設展示も9月からだいぶ変わっている。MOMATコレクションは10月12日から新展示となっている。特に3階展示室では海関70周年企画として「プレイバック『抽象と幻想』」展が開かれている。

https://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20221012/(2022年10月20日閲覧)

 

 まずは4Fのハイライトは狩野芳崖《桜下勇駒図》、横山大観《菊慈童》、渡辺省亭《雪中鴛鴦之図》など。

《雪中鴛鴦之図》 渡辺省亭

 渡辺省亭は花鳥画に長けた人だという。菊池容斎の弟子、その後輸出陶磁器の図案家として活躍、1876年頃にパリに派遣され印象派の画家とも交流をもった。

渡辺省亭 - Wikipedia (2022年10月20日閲覧)

 辛辣なところがあり、竹内栖鳳について歯に衣着せぬ批評で「栖鳳と云う人は動物は描けるが人物は描けない人らしい」とまで語っている。

 3F10室日本画の間では、竹内栖鳳の新収蔵品に合わせて、日本画の奥行ー遠近表現という企画意図から作品が展示されている。その企画に関するキャプションが、遠近法の判りやすい解説になっているので引用する。

二次元の画面で奥行きを感じさせるにはどのような方法があるでしょうか。よく知られているのは透視図法。二本の平行線が遠くにいくほど狭まって見える現象を利用した作図法です。一点透視図法、二点透視図法、三点透視図法があります。それから、空気遠近法と色彩遠近法。遠くのもののコントラストを弱めるのが前者、遠くのものに(多くの場合)青みを帯びさせるのが後者です。モチーフを重ねる方法も有効です。重なって一部が隠れている方が遠くにあると認知されるのを利用した表現法です。このほか、古くから東洋絵画で共有されてきた約束事に則って、近くのものを画面下部、遠くのものを画面上部に配置する方法や、中国山水画のいわゆる「三遠」などもあります。
 今年新たに収蔵した竹内栖鳳の《日稼》は、何層にもモチーフを重ねた画面構成が特徴です。この作品のお披露目を兼ねて、近代以降の日本画の奥行き表現を考える特集です。複合的な手法から、いっそのこと完全無視した作品まで、それぞれの手法と効果をお楽しみください。

 そして遠近法=透視図法の作例としてあげられているのがこのへん。

ウォール街》 横山操 1962年

 横山操というと東近美で「塔」を何度か観ている。あとどこかで「赤富士」のシリーズを幾つか観ている。加山又造とは自他共に認めるライバルだったとか、シベリア抑留経験あるとか、脳卒中で右麻痺になり絵筆を左手に持ち替えて作画したとか、そういうエピソードを評伝的に読んだ記憶がある。

 この絵は1961年にアメリカ旅行した際にニューヨークやグランドキャニオンを回った時のことを題材にした一連の作品の一つ。「塔」を観ていると、この人が摩天楼をこういう風に表現するというのはなんとなくうなずける。なんとなくだが、ベルナール・ビュッフェが描いたニューヨークと同じようなものを感じる。画家の感性は、あの大都市になにか薄ら寒い、生身の人間を拒絶するような何かを感じるのだろうか。

 

《女優》 橋本明

 一見して橋本明治と判る。ポップで太い輪郭線の独特な表現で女性を描く。この人の絵は高崎タワー美術館などで何度か観ている。ある種一度観たら忘れることができないオリジナリティがある。この絵は明確な遠近法だが一部他視点的な部分もあるようだ。ちなみにこの絵のモデルは司葉子だという。

 

 そして新収蔵品、竹内栖鳳

《日稼》 竹内栖鳳 1917年

 この作品の解説キャプションにはこうある。

手前から順に、笠、流し場、娘、斧、障子、金色の平卓、堆朱の箱、そして阿弥陀の掛軸と、たくさんのモチーフが重なっていることに気づいた途端、平たく見えていた(しかも流し場のパースに迷いがある)画面に奥行きを認知できるようになるのが不思議です。作者はその落差を最大にしたかったようです。なぜなら、流し場以外のモチーフを正対させ、娘の着物なんて平たくベタ塗りにしているのですから。それでもまだ平たさが足りないと思ったのか、「写実の匂ひが鼻につく」作品になった(「文部省展覧会日本画作家の作意と苦心」『太陽』1917年11月)とコメントしました。

 「ながし場のパースに迷いがある」というが、これは明らかに透視図法的にやや失敗なのではないかという気もしないでもない。障子や奥の掛軸が妙に平面的である。それと前景のモチーフや娘の立体感とのバランスも悪い。流し場のパースはどうせなら、多視点的にしてしまえばいいのだが、多分竹内栖鳳セザンヌにもキュビスムにも興味はなかったに違いない。

 さらにいうと、多分これは自分の感じ方なのかもしれないが、娘が額を拭うようにする手拭と顔の感覚がちと微妙な気もしないでもない。なんていうのだろう、これ手拭なかったら、この娘はずいぶんと額の広い子になってしまうのではという気がしないでもない。まあ考えすぎかもしれないけど。

 

 着物のベタ塗りにしろ、栖鳳自身のいう「写実の匂いが鼻につく」というコメントにしろ、この作品はなんとなく栖鳳自身気に入らない作品なのかもしれない。というよりもこれは作者的には失敗作(?)なのかも。前述した渡辺省亭による栖鳳評ではないが、竹内栖鳳は動物画は得意だけど人間を描くのが苦手だったのかもしれない。渡辺省亭がこの絵が制作された翌年には亡くなっているので、この絵を観ているかどうかわからないが、辛辣な省亭だったらどう評しただろうか。

 

 10室でメインにあるのは下村観山の《唐茄子畑》。これを観るのは久しぶり。右隻の桐の上に伸びる縦の表現、左隻の柵にからまる唐茄子の葉と蔓は横への表現。右隻で飛び立つ鴉と左隻の地面になぜかいる黒猫。垂直と水平、これもテーマである奥行とn関連なのだろうか。

《唐茄子畑》 下村観山 

 

 そして多分初めて観る菱田春草の《四季山水》。約9メートルもの画面に四季の風景を描いた絵巻。絵巻によって右から左に季節の移ろいを描いている。こういうのは異時同図とは多分いわないのだろうな。

 1910年頃の制作ということで、1911年に36歳で早世した春草の晩年の作品。

 この作品を観ることができただけで、来た甲斐があったような感じ。

 

 同じ10室には吉岡堅二の《楽苑》も。こちら奥行を「完全無視」した作品かも。沢山の動物というモチーフを平板に配置している。まったく奥行き感がないが楽しい作品。多分、アンリ・ルソーの影響がある作品なのだと思う。

《楽苑》 吉岡堅二

 しかしいつものことながら、10室日本画の部屋は落ち着けるし、出来ればずっといたくなるような雰囲気の場所だ。

 

 東近美には年内にあと1~2回行ければいいと思っている。

 

東御苑

 天気が良い。ほぼ快晴である。どうせ妻からどこかへ出かけたいと言われるので、先手をうって青い空に似合う公園を考えた。出来れば公園散策と美術館巡りをセットにしたい。真っ先に浮かんだのが東御苑と東近美。

 東御苑に妻と行ったのは一昨年の12月だったか。前から気になっていたのだが、いつも止める北の丸公園駐車場からだと目の前にあるのだが、代官町通りには歩道橋しかなく、横断歩道は竹橋の交差点まで下らなくてはならない。車椅子だと地下そうで遠いのである。ということで割と敬遠することが多いのだが、そのときは車の通行を見計らって、「えいや」と道路を渡ったんだった。

 そのときは広い公園内を車椅子を押して歩いたのだが、妻はえらくこの公園が気に入ったみたいで、東近美を訪れるたびに東御苑に行きたいと口にすることも多かった。たいていの場合は、美術館で時間をとるので北の丸公園をちょっと歩くことでお茶を濁してきた。

 今回は晴天ということもあり、久々に代官町通りを越えてみた。まずは北詰橋門の手前で荷物検査。お堀を見つつ門に入るとすぐに天守台が迫ってくる。いつもお堀を見るとほぼ同じ場所から同じ景色を写真に撮る。まあここに来るとあとは天守台に登って公園の全体を俯瞰で撮ったりとこちらもだいたい同じ景色である。なのである意味、定点観測じみた同じ写真ばかりになる。

<東御苑園内図>

 前回もそうだったけど、今回も北詰橋門~天守台~富士見多聞~松の廊下と回り大番所、百人番所を抜けて大手門に出る。そういうコースだ。

 ウィークデイなので当然人は少ない。どこかの小学校の遠足だか社会見学の一団がいるが、少子化のせいか人数は少ない。あとは海外からの観光客がポツポツと。みなさん円安の恩恵を受けているのでしょう。

 ひととき都会のオアシスで過ごす。東京のど真ん中にこうした自然に恵まれた憩いの場所があるというのは、市民にとっては僥倖かもしれない。これはひょっとすると硬質=天皇の恩寵かもしれない。もしも明治に天皇が江戸=東京に来なかったら、江戸城跡はどうなっていただろう。もし天皇制がどこかで廃止されて共和制になっていたら。

 おおよそ公共性に乏しい日本という国にあっては、首都東京のど真ん中のこの一等地は多分開発に次ぐ開発で跡形もなく、ただのビル街が延伸していたかもしれない。東京駅や大手町から新宿まで一直線に続くビル街。そういう絵図が目に浮かんでくる。

 それを思うと東京の真ん中に自然溢れる空間があるのは天皇家の住まいがあるからというのも、なんとなくうなずける。そういう権威とのセットがないと、パブリックスペースができない国なのではないのか。もっとも皇室=天皇家のプライベートな空間に隣接したパブリックスペースということで、完全に市民のための空間ということではないのだろうけど。

 

<お堀から東近美を望んでみた>

天守台石垣附近>

天守台への道はなんとなく岸田劉生みたいな>

<桃華楽堂>

天守台から本丸を望む>

<本丸、けやきの大樹>

<松の大廊下跡>

<富士見櫓>

 大手門を抜けてからお堀沿いを東近美まで歩く。9月にこのへんを歩いたときには雨に降られて散々な目にあったところだ。お堀端の柳が風に揺れて、なんとなくいい感じだった。