ボニー・レイット

 テデスキ・トラックス・バンドが好きとか、来日ライブには全部行っているとかいう話をすると、時々、それじゃボニー・レイットも好きでしょうみたいに聞かれることがある。たいていの場合、一応知っているけどあんまり聞かないみたいな話をする。正直ほとんど知らない。ここ4~5年だとYouTubeでときどきジャム・セッションやなんやの一人として出ているのを見たり、聞いたりくらい。

 それで改めてググってみるとキャリアの長い、ブルース・ロックの姉御、大御所に近い人だということがわかる。

 


Bonnie Raitt - Full Concert - 12/31/89 - Oakland Coliseum Arena (OFFICIAL)

 もう聴けば聴くほど、どストラークな感じ。なんで今まで、彼女の存在ってひっかかってこなかったのかという感じである。とにかくカッコいいし渋い。70年代から長く活動を続けてきた。ブルースライクでおまけにスライド・ギターの名手である。普通、ボトルネックは薬指か小指にはめて弾くんだけど、彼女は中指ではめる。その分、人差し指はもとより薬指、小指で抑えるなど、慣れないと指使い大変な感じである。

 太い声とスライド・ギターはまるで一人でテデスキ・トラックスの合わせ技をしている。声質もスーザン・テデスキとそっくりだけど、ボニー・レイットが本家であり、テデスキはデビュー当時、ボニー・レイットのコピー、再現みたいに言われることが多かったという。多分、本人もボニーをリスペクトし、フォロワーであったことは間違いないと思う。

 ボニー・レイットは70年代から活動を続け、一定の名声、評価を得ていたけれど、80年代に入ってレコード・セールスも落ち、低迷期が続いたという。そして89年に起死回生の大ヒット曲、大ヒットアルバムを出し、大復活を遂げる。それがこの曲「NIck of time」だ。


Bonnie Raitt - Nick Of Time

 これはもちろん聴いたことがある。そこでこの大ヒットアルバムを早速購入して通して聴いてみる。

Nick of Time

Nick of Time

  • アーティスト:Raitt, Bonnie
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD
 

  申し分のない完成されたアルバムだ。このとき彼女は40歳、まさに復活劇だったんだと思う。しかしキャリアの長いソロ・アーティストが、もちろんアル中、薬中といった負おキャリアも克服したうえで、中年期になって商業的に大成功をおさめる。アメリカの音楽業界でもあまりない例なのかもしれないが、奥の深さでもある。

 こういう孤高の女性ロック・アーティストの長いキャリアがあればこそ、例えばシェリル・クロウのようなスターが生まれる。スーザン・テデスキのようなアーティストが出てこれる土壌があるということなんでしょうね。

 ボニー・レイットは1949年生まれだから今年71歳。コロナとかの影響があるため今は大きな活動はしていないようだが、それまでは頻繁にライブ活動も続けているという。キャリア、年齢からすれば大御所なんだろうが、渋いロック・アーティストとしてまだしばらく現役で頑張ってほしいと思う。

 とりあえず『NIck of time』は愛聴盤として長く聴いていくと思うけど、彼女の長いキャリアも後追いで少しずつ追っていこうと思っている。

兄の病状

 火曜日、兄からメールで翌日埼玉医大に通院するときに送って行ってくれるどうかというメールがあった。以前から25日に通院すると聞いていて予定もしていたので大丈夫と返事をした。そしてその日は透析があるので、そっちは大丈夫かとも書いておいたところ、透析にはいけるとの返事だった。

 それで家の諸々用事をしていたところ、10時少し過ぎた頃に電話があり足が痛むので透析に行けない。病院に電話したところ連れてきてもらえといわれたという。急遽、兄の家に向かい、30分近くかけて1階まで下りてきた兄を車に乗せて病院まで連れていく。駐車場から車にカミさん用に積んでいる車椅子に兄を乗せて透析センターまで向かう。その間に話を聞くと、なんでも兄は埼玉医大を退院した後、右足をひねって捻挫したことは聞いていたが、先週末には自宅でカップ麺をこぼして左足に火傷を負っていることなどがわかった。

 さらに2週間前にいった埼玉医大で再入院を勧められたのだが、それを本人は断ったことなども透析センターの看護師から聞いた。その日は送迎で自分も付き合っていたのだが、診察には立ち会わなかった。医師からそういう申し出があったことも兄は自分には話をしていない。後で聞いたところでは、埼玉医大では切断した右足の親指とは別に、左足の親指にも部分的に壊死が認められるので、切断したほうがいいので入院を勧められたという。兄は透析を受けている病院の皮膚科では、まだ切断するほど状態が悪くないいわれているので断ったということだった。

 いずれにしろ1人で透析に通えない状態なので、現状では独居させるのは難しく、入院させる必要があるとは自分もそう思ったし、看護師も同じ見解だった。そこで25日の埼玉医大での診断如何でどうするかをを決めていくことになった。

 その日は透析終了後にまた兄を迎えに行き自宅に送った。家にはちょうどヘルパーが来ていて、ヘルパーが掃除をし、布団にも掃除機をかけてくれていること、洗濯物の取り込みや畳んでくれているのを確認した。

 翌日、25日に埼玉医大に付き添い医師の見解をきく。兄からは3時からの予約とずっと聞かされていたのだが、医師からは血管外科の外来は3時までで、3時からの予約は有りえないということだった。兄は3時からといわれた、予約票にもそう書いてあったとずっと主張していたが、後で確認すると予約票は13時となっていて、ようは13時を3時と誤認したということだった。なんだかあっつう間に認知も進んでいるのかもしれない。

 医師の見解は入院治療は、前回切断した右足親指の部分の状態が思わしくないので、もう少し手前部分も切除の可能性があること、さらに左足親指にも壊死が認められるので切断する。それ以外の入院治療はないとのことだった。

 左足親指の切断については緊急性はあるのかと聞くと、それは調べないとわからないとのことだったが、医師の知見としては予防的な部分も含めて早め切断した方がいいということだった。さらにもともと病因は糖尿病による下肢動脈血管障害なので、血管外科としては対処療法として壊死部分の切断等行うだけで、病気自体を治すことは難しいということだった。もし別の病院で壊死部分だけを切除するという対応をとるなら、そちらでやってもらうことでいい、あくまでここでは切断手術を伴う入院措置だという。

 正直、目の前が真っ暗になる思いだった。右足の親指切断だけで歩行や起居動作に影響が出ている状況では、さらに片側の親指を切断したらどうなるか。間違いなく歩行は難しくなるし、独居での生活は困難だ。出来れば左足親指の切除は遅らせることができればそれにこしたことはない。出来ればその間に、老健施設などの施設を探すとか、現在のエレベーターなしの5階住居から低層住宅に引っ越しさせるなど、すべきことをしなくてはいけない。

 診察後は兄を家まで送り兄と少しだけ今後のことについて話をする。その間に兄の着ていた衣服を洗濯して干したりする。結局、どこへ行ってもこういう家事仕事をしている感じだ。翌日、埼玉医大の医師の話を透析を受けている病院に説明するため自分も行くことに決めた。透析については兄は送迎バスもあるので、直接透析センターに行ってくれればいいとのことだった。

 そして今日、透析センターに行くと兄はまだ来ていない。なんでも玄関で転んでなかなか立てないので送迎バスに乗れなかったということらしい。そこで家まで行き、結局兄を乗せて透析センターまで送る。そこで看護師に前日の埼玉医大での話をする。担当医師が今日は来ていないので、土曜日に再度医師に説明をして欲しいとのこと。そのうえで医師の判断で入院措置を決めていただけるかもしれないという。

 とにかく現状では週3回の透析に自力で通えない。その都度自分が兄の送迎を行うのも不可能。となると、以前のように時間をかけても自力で通院ができる程度までに回復するまでは入院治療をしていただく。そういう方向で進んでいけばいいと考えている。

 しかし仕事をやめて少しずつでも自分の時間を作りたいと思っていたのに、多くの時間を兄のために費やすことになってしまっている。正直、今の状況だと仕事をやめていなければとても対応できないだろうと思うくらいになっている。どうしたらいいのかと思う部分と、とにかくなんとかしなくてはという切迫した思い。

 兄のケアマネに連絡して、先日受けたという介護保険の更新時の調査とその結果の再認定について、もし介護度が変わらないようであれば区分変更を依頼した。兄は現在要介護度1となっている。しかし一種一級の障害者で要介護3の妻を15年みてきている自分からすると、兄の状態は妻以上に悪いと思える。とにかく車椅子に乗せても一人でそこから立ち上がれないくらいに弱っている。歩行、起居動作が緩慢を通り越してほとんど難しい状態になっている。おまけに片目は失明、視力がある方も白内障等の影響で視力も相当に落ちている。そして度重なる誤認はまちがいなく認知症もすすんでいる。

 今の介護保険では介護度の認定基準もじょじょにハードルが上がってきている。ちょっとでもできる、自助可能と認定されれば介護度は落とされる。妻も認定調査で介護度が下がったことが何回かあった。しかし病状が改善されないこと、ようは専門の医師から治らないと明言されているのに、国の基準が変わったという理由で介護度が下がるのは納得できないと、その都度区分変更を申し立ててきている。妻に関していえば、病状は改善されない、そのうえで加齢から状態は悪くなっていく。それでも介護度が上がるどころか下がることは認められないというのが、自分のスタンスでもある。

 まあそういう部分を別にしても、兄の状態をみていると介護度があがらないと本人の独居で生存にも関わるようにしか思えない。

クイーンズ・ギャンビット

 

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アニャ・テイラー=ジョイ

 Netflixのドラマにはまった。日曜日から月曜日にかけて第1話から第7話まで一気に観した。

クイーンズ・ギャンビット (ドラマ) - Wikipedia

 ツィッターで誰かが紹介してたのかな、それでこの主役の女の子、アニャ・テイラー=ジョイの容姿、雰囲気ーちょっと危なげな美少女的な雰囲気がなんかバルテスに描かれるの妖しい美少女っぽいなとか、そういう興味もあって観ました。

 お話は孤児の女の子がチェスの才能を開花させ世界を舞台に活躍していくというもの。時代は1960年代で米ソが冷戦を繰り広げていた頃。当時チェスはソ連が国策として取り組んでいて、圧倒的に強かった時代。ソ連にとっては共産陣営の拡張のための国威発揚の一つとしてチェスも利用していたわけで、チェスはある意味資本主義陣営との代理戦争みたいなわけ。そこにアメリカの女の子が乗り込んでいくというもので、自由の戦士みたいな側面もある。

 かといって品行方正なスポコンみたいなドラマかというと、ぜんぜんそういうこともなく主人公の女の子も最初孤児院にいて、さらに引き取られた家庭の環境とかもあんまりよくなくて、薬物中毒、アルコール中毒になってしまう。薬中、アル中の女の子がチェスの才能だけを頼りにのし上がっていくという。お話はけっこうご都合主義的にどんどんスピーディーに展開していく。そのへんあまり個々人の性格描写やらなんやらを細かく掘り下げることなく、とにかくストーリーをどんどん前へ前へと進めていく。そのへんがグイグイ観る者を引っ張っていくんだろうと思ったりする。

 そしてこの作品、なによりも主演のアニャ・テイラー=ジョイの個性が際立っている。いわゆる一般的なキレイな顔の女優さんとは違う、特徴的な顔立ち。昔ならコケティッシュとかファニー・フェイスとかいわれてりするんだろう。まあ演出等にもよるんだろうけど、アップのときの強烈なインパクト、日本的にいえば目力が凄いんだと思う。さしずめ「私、失敗しないので」ならぬ「私、負けないので」みたいな感じだろうか。

 あとは時代が1960代の中頃から後半にかけてということで、使われている音楽が当時のヒット曲が多くてこれがけっこうぐっとくる。個人的には何話だったか覚えていないけど、モンキーズの「Steppin' Stone」が使われてるシーンがなんかオーっていう感じになった。

 配信もの、ドラマものってあまり興味なかったんだけど、今年になって韓国のソン・イェジンの出ている昔のやつとかから例の「不時着」までけっこう観ちゃったりもして、単に流行りモノに弱いジイサン状態だけど、『クイーンズ・ギャンビット』はかなり買いだと思うし、実際えらくヒットしているらしい。多分、もう一回くらい観てしまいそうである。

子どもの巣立ち

 訳あって子どもが急遽引っ越すことになった。高校の時からの友人とアパートで一緒に暮らすのだとか。もともと就職が決まったときに一緒に住む予定だったのだが、諸事情からペンディングになっていたのだが、先週になって急に決まった。

 といっても引っ越し先は同じ沿線の4駅手前で車だと30分もかからない距離だ。持っていく荷物も衣類を中心に最低限でスーツケースで3個分くらいだったか。それでもそれなりの荷物なので車に荷物を載せ、アパートまで送っていった。

 いずれは子どもが家を出ていくもので、遅かれ早かれやってくるのだろうが、このタイミングは親的にはいささか意表を突かれた感じでもある。23年間育ててきた、一緒に暮らしてきた家族が巣立つのは親としては正直淋しい。とはいえいずれは自立してもらわなければいけないのだから、まあ致し方ないのかもしれない。

 一人っ子だし、わがまま放題に育ててしまった感もある。子どもとぶつかると、子どもは過干渉の親と断じてくることもある。じゃあ、何でも自分でやればいい、もっと家の手伝いをみたいなことを言い返しても、家にいてやってもらえてしまえば、それを受容してしまうという言い分だ。子ども的にもこのままではマズイという意識もあるのだろうとも思う。

 自分の子育てを振り返ってみるとどうにもうまくいかなかったのではと、反省することばかりだ。当初は共稼ぎだったので1歳になるかそこらで保育園に入れた。自分と妻で交互に送り迎えをした。子どもは朝8時に預けて、迎えに行くのも延長保育ぎりぎりの夜の8時まで。一番長く保育園で過ごしたのがうちの子どもだった。保育園から小学校に上がっても、保育園が併設している学童に入れた。

 でも家にいるとき、休みのときにはよく一緒に遊んだ。土日、妻は疲れて家でゴロゴロしていることが多かったが、自分は近所の公園や車で少し行ったところにある動物園などにも積極的に連れて行った。欲しいものはなんでも買い与えた。

 共稼ぎ子育ての生活が崩れたのは妻が病気になったときからだ。15年前、子どもを迎えに行き家で過ごしているときに、妻が仕事が終わった後の会食中に倒れたという連絡が入り急いで子どもを連れて救急搬送された都内の病院に向かった。重度の脳梗塞、その後脳浮腫による減圧開頭手術、左上肢、左下肢機能全廃による片麻痺高次脳機能障害・・・・・。

 自分にとっては仕事と家事、子育て、妻の介護がすべて押し寄せてきた。そして子どもにとっても忙しない父親と病気の母親との生活が始まった。本当であれば母親の愛情を受け、成長とともに母娘で紡ぐような生活のすべてが失われた。

 そんななかで自分が心掛けたことは出来るだけ、子どもに普通の生活を送らせたいということだった。だからあまり家事手伝いとかはさせなかったし、母親の面倒をみさせるということもしなかった。できるだけ普段どおりの生活を送らせること。あとは金銭面での苦労をさせたくないということだった。

 自分自身でいえば、父と母は自分が4~5歳の頃に離婚している。自分は父と祖母によって育てられた。正直にいえば母親の記憶はまったくない。さらに父はそのころ事業に失敗し、それからはずっと安月給の肉体労働者として過ごしてきた。兄も中卒で就職した。しかし浪費家で金銭感覚がマヒした祖母は、父と兄の稼ぎを使い、多分それだけでは足りず小さな借金をいくつも作った。

 そういう家庭で育った自分は貧困がどんなものか知っている。とにかく当座の数千、数万はあったとしても預貯金というものはほとんどなく、なにかまとまった金が必要とする場合には借金をする以外になかった。家は狭いボロ家であることが多かった。4人家族で六畳一間で過ごしたこともあったし、そこから脱してもせいぜい二間の家で暮らした。友人を家に連れてくるどころか、見せることすら恥ずかしいような住環境だった。

 貧乏は子どもの根性を捻じ曲げる。それは多分、自分が自身のこととして一番わかっていることだ。だから自分は結婚し子どもができたときに、とにかく子どもに自分のような貧困を味合わせることだけはしたくないと思っていた。

 妻が倒れたとき、新しく家を建てたばかりで、それぞれがローンをもつ2本立てだったが、それが全部自分で背負わなくてならなくなった。それまで共稼ぎで余裕があった生計費も自分1人である。そのころの年収でいえば、自分より医書系出版社で働く妻の方が幾分か多いような感じだったから、このまま自分1人で働き、ローンを返していけば、いずれは家計も破綻するようなことになりかねない。

 とにかく家を売り、もっと安い家を探す。ちょうどリーマンショックが起きて景気は最悪な時期だったが、なんとか家を売却して今の家を購入した。売却しローンを完済し、家を買っても多少プラスになり、とりあえず借金なしで持ち家をもつことができた。

 今の家は会社からも近く、また子どものことで学校等に行くにも都合がよく、会社を一時ぬけて教師の面談とかにも対応できた。妻のこと、子どものことで仕事がおろそかになる部分もあり、ある部分そのことで出世が遅れた。それでも職住近接でなんとか埋め合わせもでき、50代には経営に加わることができたし、経済的にもだいぶ安定したんだとは思う。

 子どもは私立高校から都内の私大に通った。いろいろぶつかることもあったが、中学から大学まで同じ部活を続けたし、まがりなりにも真っ当な学生生活を送ってくれた。よくいう非行とかそういうことで寄り道をすることもなかった。子どもが高校にあがるときに、夜なべして体操着やジャージに名札を縫い付けたこと、学食のない学校だったので3年間弁当を作ってやったことなど、もう一度やれといわれても多分できないだろうことを続けてきた。

 そのようにして育ててきた子どもが、とくに心の準備もできないまま、あっという間に家を出ていく。かなり淋しいことだが、多分もっと大きな喪失感、脱力感が押し寄せてくるのはもう少し先のことになるのかもしれない。

 アップした画像は多分2歳くらいの頃。父親がパソコンに向かっているのを間近でみていて真似をしたくなったのだろう。本当に20年前にはこんなんだったのが、あっつうまに一丁前の大人になって巣立っていくのだ。

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PCR検査の結果

 PCR検査の会計が終わった後にもらった案内には陽性の場合、翌日の昼までに連絡があると書いてあった。会計の女性は明日の3時頃までに連絡があると思いますと言っていた。そのときに確認しなかったのだが、陰性の場合はどうなのか。案内書には陰性の場合、3時くらいまでに連絡がなければ陰性と書いてある。ようは陽性の場合は連絡があるけど、陰性の場合は連絡がないということのようだ。さらにいえば陽性の場合には、クリニックから保健所にも連絡がいき、保健所からも連絡があるので今後については保健所の指示を受けるということのようなのだ。

 なので今日は朝からずっと待ちである。昼まではけっこうドキドキ状態だった。もし陽性だった場合、仕事を辞めている自分の社会的影響は最低限に抑えられる。でも自分1人が隔離されたり入院した場合は、カミさんの面倒をみる者がいなくなる。カミさんも陽性となると二人とも隔離なり入院となる。子どもも濃厚接触となり、会社関係にも影響がでる。自分だけが陽性でカミさんが陰性の場合でも、カミさんはデイサービス等も控えなくてはならない。そういう諸々を考えると感染による影響って、うちのようは小さな小市民の生活でもけっこうある。

 自分1人陽性、夫婦ともに陽性といったことについて思案というか、頭の中でぐるぐると思いが巡る。そんな風にして午前中が終わり、昼過ぎになっても連絡はない。これで陰性は確実かなとも思ったが、なにせ医療現場は混乱している。昨日のふじみの救急クリニックのオンライン診療も14時半の時間に接続しても先方からの応答がないまま数時間放置されて結局できなかった。それを考えると昼までに連絡が大きくずれ込む可能性もある。ということで3時過ぎなんとなく多分陰性だろうという希望的観測をもとに漫然と時間を過ごした。

 結局4時少し前に案内に書いてあったPCR検査のための専用電話番号に連絡をしてみると、最初はなかなか繋がらなかったが、何回かかけているとようやく繋がり男性の方が対応してくれた。そこで昨日、PCR検査を受けた者として名前等を告げて結果を聞いてみると、自分もカミさんも陰性であるということだった。

 まあ多分大丈夫だろうとは思っていたが、こうやってきちんと確認できないとやはり不安である。何時までに連絡なければ陰性といわれても不安は残る。それを思うとやはりこのPCR検査のやり方は若干不満もある。できれば電話で必ず陽性、陰性の連絡がある。それが人的資源や回線の問題で難しいようであれば、専用サイトで検査結果が確認できるようになっていれば一番簡単ではとか思ったりもする。とはいえそのへんは民間医療機関ではなかなか難しい。

 それを思うと、なぜこういう検査体制を公的なサービスとしてできないのかという根本的な疑問が残る。民間の一医療機関でドライブルスルー方式のPCR検査が可能なのである。行政が資金、技術、人など社会資源を投入すればもっと広範囲で簡便に検査を受けることは可能だったのではないかと思う。

 時間的余裕は春先は無理だったとしても、今は11月だ。緊急事態宣言明けのあたりから準備を進めていれば、誰でも無償、もしくは保険適用でいつでも、何度でも検査が受けられたのではないのか。それを検査体制、医療体制の整備を充足させないままで、経済を回すというお題目のもとにGoTo事業を見切り発車させてきた。

 普通に考えて検査を充実させて、陽性者を隔離治療させ、陰性者だけで日常生活を行う、経済活動を行っていくのが、感染対策を行いながら経済を回すことではないのかと思うのだが、この国の感染症対策はとにかく最初から検査に否定的だった。やれ偽陰性だの擬陽性だのと検査の実行性、確実性に疑義を唱えたり、検査を増やして感染数が拡大すると医療が崩壊するといったことが喧伝された。

 とにかく感染を抑えるのではなく、感染者数を低く抑えるというのがこの国の感染対策の基本だったと思う。多分それは多くの識者が指摘するように、夏に行われる予定だったオリンピックのためだったのだろう。オリンピックを予定通り開催するために感染が広げてはいけない。感染を抑えるために手っ取り早いのは、検査を抑制して感染者数を低くすることだ。ようはそんな小手先の数字のマジックを弄しようとしていた。

 その結果どうかというと、この国の感染対策は隣国、中国、台湾、韓国などに比べて極めて劣弱なままである。感染爆発が起きているアメリカに比べても検査体制は大きく劣っている。この国ではまだまだ市民が自由に検査を受けられる状態になっていない。発熱症状がある、感染者との接触がある、といった一定の条件のもとで民間医療機関に頼ってようやく検査ができる状態なのだ。

 さらにいえば、症状がない、感染者との接触がないと、たかだか鼻を綿棒でほじほじされるだけで1万円の費用がかかるのだ。ちっともそれは先進国的ではないと思う。今回、PCR検査で陰性の結果が出て正直ホットしている。自分はもう熱もないので、多分昨日までの発熱はただの風邪だったのだと思うが、PCR陰性によりとりあえず人にうつすリスクだけは避けられる。

 もちろんその安心は今だけのことだ。リタイアしたとはい週末には買い物にスーパーに出かける。週に一度くらいは美術館に行くこともある。電車で都内に出ることだってある。できれば月に一回、もしくは2週間に一度程度は検査を受けられた方が安心だと思う。それを思うと毎日、都内まで電車に乗って通勤している子どもなどは、日々感染リスクに晒されているわけで、本人の陽性、陰性を含めて不安のなか生活をしていることになる。

 全員が月に1~2回検査を気軽に受けられて、陽性者は休んで治療を受ける。陰性者だけが日常生活を送る。たぶんそれがコロナ下での新しい日常性ということなんじゃないのかと思う。

 今回、自分とカミさんはPCR検査を受けられて本当に良かったと思っている。でも一度きりでは安心は長続きしない。今回の検査で得たのは、今だけの安心でしかないということ。

 

発熱とPCR検査

 一昨日の夜、けっこう精神的にくることがあって深夜深酒した。昨日は朝から久々二日酔いで吐き気や下痢症状で床についていたら、熱が37度台後半に。もう計るたびに熱が上がっていく感じで夜になると熱は38度台で高止まり、最終的には39度台に突入で起きているととにかくフラフラする状態。

 ちょうど関西旅行から二週間くらいたつのでいよいよいコロナかと当然のごとく思った。ただし咳症状や喉の痛みもまったくなく、当然のごとく味覚障害も起きていない。ただし倦怠感はけっこうあるので、ほとんどずっと寝ていた。

 今日になると熱はまた37度台に落ち着いており、フラフラ感は少し薄れてきたのだが、このままコロナかどうかわからない状態のままいる訳にもいかないのでとにかく検査だけは受けようと思った。

 そこで、最近ドライブスルーのPCR検査を独自に導入して話題になっているふじみの救急クリニックのホームページを調べてみることにした。

ふじみの救急クリニック|ふじみ野市の救急科・脳神経外科

 もともとふじみ野には一時住んでいたこともあり、またこのクリニックの前身でもある遠山脳神経外科には、病気になった後、カミさんがMRIの検査などで何度か通院したこともあるところだったので、割と勝手がわかっている。

 ホームページではとにかくclinicsというアプリからオンライン予約をとり、それから検査という流れになるようだ。オンライン予約でも来院予約はほとんどとれないようで、オンライン診察の場合は直近だとその日の午後から可能ということなので、14時半からで予約をとる。

 一応パソコンで繋がることを2台のノートパソコンで確認、念のためスマホでもclinicsアプリをインストールして繋がることも確認。万全の状態で14時半を迎えるのだが、画面は接続中のままで先方からの反応がないまま。そのまま1時間経過したので埒があかないので、医院に電話するものの音声案内で案内の通りに番号を押しても結局担当者と話しとかもできないまま終了。そのまま3時間経過、4時間経過してこれはもうあかんとパソコンを落とす。そういうことなら直接行ってみるまでと考えて、カミさんと二人でふじみ野まで行ってみることにした。一応、clinicsの案内では、発熱症状や感染者との接触等があればPCR検査は保険適用、症状がない、接触もない場合は保険外で実費1万円ということだった。もうとりあえず検査が受けられるなら2名2万円はいたしかたないと腹をくくってみた感じだ。

 ふじみ野までは高速で15分から20分くらいでつく。ふじみの救急クリニックは三芳スマートICで降りるとだいたい5分程度でつく。医院が借り上げたという広い駐車場スペースがドライブスルーの検査場になっていた。そこには会計、検査、受付などと上部に表示されたプレハブが立っている。まず車を止めて受付に行く。対応してくれた女性から検査の予約はありますかと聞かれたので、予約はしていないが14時半にオンライン診療の予約をしたが接続中のままである旨をスマホ画面を見せて説明すると、少々お待ちくださいと一度奥に下がった。

 その後、女性が戻ってきて予約扱いにしてくれた。そこで発熱症状のある自分と一緒にいるのでカミさんも一緒に検査を受けさせたいというと、奥さんは保険適用外になりますがいいですかというので了承。その後、渡された申込書に連絡先等必要事項を記入してふたたび受付に提出するとスマホで呼び出すまで車で待機してくれということだった。

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 車で待っている間にも断続的に車でやってきてドライブスルーで検査をしていく。多分予約された時間に来ているのだろうか。駐車場で待っている車は10台前後でさほど多くない感じだが、まあこれは夜の7時台ということもあるのだと思う。昼間はもっと違うのかもしれない。

 30分と少し待つとスマホに連絡があったので、車で移動するのかと聞くと直接検査所に来てくれとのこと。やはりドライブスルーは予約者で、自分たちはイレギュラーなのかもしれない。カミさんを車椅子に乗せて検査所までいく。PCR検査は例の綿棒みたいなやつで鼻の粘膜を取るものであっとういう間に終了した。

 最後に会計でカミさんの分の実費1万円を支払う。自分の方はclinicsで登録したクレジットに保険適用分として引き落とされるようだ。連絡は陽性の場合は翌日の昼過ぎまでに連絡がくる。あわせて保健所にも連絡されるので、その後は保健所の指示に沿ってということ。また16時くらいまでに連絡がなければ陰性と考えるようにとのことだった。またその証明書については診断書として別途約2千円必要とのことだった。

東京富士美術館再訪~永遠の日本美術の名宝

 東京富士美術館(以下富士美)に行ってきた。木曜日はカミさんのデイが休みなので、なにか木曜日に何処かに行くのが恒例となりつつある。

 富士美では企画展「THIS IS JAPOAN IN TOKYO~永遠の日本美術の名宝」が開かれている。この企画展には9月に一度訪れている。

東京富士美術館へ行く - トムジィの日常雑記

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 展示は前期展示が9/1~10/18、後期展示が10/20~11/29までということで、まもなく終了となる。伊藤若冲の「象図」などは後期展示なので、開催中もう一度来たいとは思っていた。富士美は車だと圏央道を通って30分程度、ある意味家から一番近い美術館でもある。モータリゼーションの重要性というか有難みを感じるところだ。

 圏央道あきる野インタで降りて、いつもだと新滝山街道に入るのだが、今日は昼食をとっていなかったのでトンネルの手前で旧道に入り、しばらく走って中村うどんではなく山田うどんを見つけて、割とヘビーな昼食をとる。

 富士美はウィークデイということもあり、割と空いている。密を避けるという意味では、郊外や地方の美術館というのはお出かけにはうってつけかもしれない。とにかく人との接触はきわめて少ない。まあそれをいっては家に籠るのが一番ということになるのだろうけど。

 企画展「永遠の日本美術の名宝」はやはり壮観ではある。富士美は西洋美術のコレクションが豊富なのだが、日本美術も膨大なコレクションがあることを改めて認識する。まずは多分後期展示の目玉作品と思われるものを。

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「象図」(伊藤若冲

 これは多分何度か観ている。一番最初に観たのはやはり金沢の20世紀美術館での富士美コクション展だったか。これは若冲75歳の作品でデフォルメが効いている。若冲は10代の頃に、将軍に献上される象が長崎から江戸に運ばれるのを京都で観ているという。その時の記憶をともにだいたんデフォルメを効かせて、あたかも想像上の象のごとくに描いている。とにかくその巨大さを画面に押し込めるようにして表現している。ある種、奇想とされる表現の代名詞のような作品だ。

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「亀寿老図(亀仙人)」(曽我蕭白

 若冲とともに奇想の代表選手とされる曽我蕭白だ。奇抜な着想とグロテスクでダイナミックな表現が有名な人とされる。この人の作品は主に「奇想の系譜展」と「ボストン美術館展」で観たけれど、その時の大作に比べるとだいぶ大人しいというか、どちらかというとユーモラスな雰囲気だ。

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風神雷神襖図」(鈴木其一)

 江戸琳派の祖酒井抱一の後継者といわれる鈴木其一の作品。圧巻の作品だと思う。これが襖に描かれているというところがなんか凄いと思う。日本における絵画、美術は基本的に装飾画であり、家屋のインテリアの一つとして生成発展を遂げてきたということを改めて考えてみたくなる。

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「三保松原図」(橋本雅邦)       「神岳不二」(横山大観

  美しい富士の絵図だ。大観の富士はつとに有名だけど、こと美しさという点では橋本雅邦のそれが上回っていると思ったりもする。

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「竹雀竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」-順姫所用

 仙台藩第7代藩主伊達重村の娘順姫が伊予宇和島藩第6代藩主伊達村壽に嫁いだ際に用いられたものとされている。豪華な外装、内装ではあるが、もしこの乗り物に乗って仙台から伊予まで揺られていったということになると、昔のお姫様もハードな旅を強いられたものだと思ったりもする。
 

 その他では常設展はどこかに貸し出しているのか主要な有名どころの絵はあまりなく、例のナポレオンのコレクションやらイギリス風景画やルノワール数点、モネ1点などやウォーホールの作品などが代わり映えすることなく展示されている。この展示は夏ぐらいからずっと一緒なので、本当に主要な作品は貸し出されているのかもしれない。

 しかし雰囲気は本当によく、静かで人も少なく、なんとも居心地がよい美術館である。

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 あと前回来たときに観た「ダ・ヴィンチ没後500年『夢の実現』展」も行われていた。こちらも11月29日までとか。ここではダ・ヴィンチの草稿にある設計図を基にした模型が面白かった。

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