文教堂私的整理へ

 Twitterのタイムラインが眺めていたら、こんなニュースが流れてきた。

 記事によると「私的整理の一種である事業再生ADR裁判外紛争解決手続き)を第三者機関の事業再生実務家協会(東京都港区)に申請し、受理された」という。

 そこで検索してみるとこういうプレス発表も出ている。

「事業再生 ADR 手続の正式申請及び受理に関するお知らせ 」

http://www.bunkyodo.co.jp/company/date/press20190628_01.pdf

 文教堂は2013年8月から5年連続して赤字が続いており、2018年8月期には約2億3千万円の債務超過に陥っており、今年8月期も赤字となると上場が廃止されるという、実質的に破綻という状況が迫っていた。 

 

 そうしたギリギリの時点での私的整理は、ある意味1年間のモラトリアムといえるかもしれない。記事の中では23%を保有する大株主大日本印刷の動向が注目されているとなっているが、文教堂筆頭株主は株式を28%保有している取次の日販である。出版不況が続くなかで債務超過に陥っている文教堂を日販が支えることができるのか、これはこの間注目していることではあった。

 実際、業界第一位の日販が文教堂の処理を誤ってしまえば、出版業界にはとんでもない影響が出る。売上こそ1位とはいえ、財務状況は幾分かはトーハンの方が良いと囁かれているくらいなのである。

 もともと文教堂といえばトーハン一手というくらいだった時期がある。日販、トーハンによる書店帳合獲得合戦の最後に、日販がババをひいたということなんだろうかと、2016年に日販が筆頭株主となった頃には、友人たちと酒の肴にしたものだった。

 文教堂の売上は2017年に270憶前後あったと記憶しているが、最近でもおそらく250憶前後はあるのではないかと思う。もちろん今は、グッズや文具などにシフトしているため純然たる出版売上はすでに200憶前後あたりと勝手に推測しているが、もし完全に破綻にでもなったら、その市場がなくなるのである。これは日販がどうのという以上に、青息吐息の出版業界にとってもかなりの痛手になりかねない。

 もともと文教堂は、最盛期には店舗数200店以上、売上も500憶を超えていたのではないかと思う。当時コンピュータ系の出版社に勤めていた自分らからすると、路面店、郊外店で100坪前後の書店の割にはコンピュータ書に力を入れていたので、よく顔を出したものだった。あの頃店長をしていた人たちは今頃なにをしているんだろうと思ったりすることもある。溝の口店、青戸店、葛西店などなど。

 その頃は、文教堂は主要出版社の営業を集めてユニークな新年会をやることで有名で、その余興では島崎社長自らが素人芸ながら、毎年こったコテコテの演芸を見せてくれた。一番興隆を極めた頃、島崎社長はトータル売上ではまだまだではあるけれど、日々の現金収入では紀伊国屋を上回るみたいなことを話していたのをよく覚えている。

 島崎社長は勤めていた銀行をやめて会社を継いだと何かで聞いたことがある。その時にも自分は元々銀行屋である。だから現金収入があるということがどれだけ力を発揮するかを一番よくわかっている、みたいなことを自慢気に話していた。

 実際のところ、日々の現金収入をある意味担保にして、ガンガンと金を借り、それをもとに出店を続けた。しかし2000年前後から出版売上が業界全体で一気に右肩下がりとなるなか、巨額の有利子負債が負担となり、経営は一気に悪化していったようだ。その後は転がる石のごとくで、トーハンの支援を受け、次には大日本、そして最後には日販といったなかで今回の私的整理となった訳だ。

 今後は不採算店を大きく整理し、リストラを断行していくのだろう。多分それ以外に道はなさそうだが、閉店には什器備品の償却や、減損処理などの閉店コストが嵩むことにもなり、再生への道は険しいと予想される。

 しかしあの文教堂がという思いがいまだに頭をよぎる。自分が出版営業をしていた1990年代、あの時代はまだまだ本が売れる時代ではあったのだ。今、出版ビジネスは不況どころか、壊滅に近いところまできている。市場は急スピードで収縮され、代替ビジネスはいまだ育ってきていない。

 これまでも何度も書いていることだけど、学卒で書店に勤めて以来、ずっと出版業界の傍流で生き続けてきた。そのキャリアの最末期にあって、業界自体の死滅寸前みたいな状態を見るのはなんとも忍びない思いだ。

 

ベアテ・シロタ・ゴードン展に行く

 嵐山町国立女性教育会館で開かれている「ベアテ・シロタ・ゴードン展」に行ってきた。この企画展は駅に貼ってあったポスター知った。

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 ベアテ・シロタ・ゴードンのことは以下の2冊の本で以前から知っていた。22歳の多言語を操る若き女性が、GHQの民政局で日本国憲法の起草作業に加わり、第14条「法の下の平等」、第24条「両性の平等の原則」の条文案を作成し、特に女性の権利を明確化させることに尽力をされた方だとは知っていた。

 

日本国憲法を生んだ密室の九日間 (角川ソフィア文庫)

日本国憲法を生んだ密室の九日間 (角川ソフィア文庫)

 
1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝 (朝日文庫)

1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝 (朝日文庫)

 

   『日本国憲法を生んだ九日間』は創元社、『1945年のクリスマス』は柏書房といずれも元本で読んだのだが、日本国憲法がわずか9日間で起草された押し付けであるとか、法律学の専門的知識をもたない若い女性が加わったなどという点から、憲法ディスる気はさらさらない。この2冊を読んで思ったのは、日本国憲法は当時のGHQ民政局に集った若く理想に燃えるアメリカの知性による結実だということだ。それは民主主義の理想を体現しようというまさしく自由と平等を、戦争に敗れた後進国日本の新生憲法の中に表そうという試みだった。

 さらにいえば、当時のアメリカの情勢は、じょじょにソ連との対立が顕在化しつつあり、ルーズベルト時代のニューディールを牽引した進歩派は、アメリカ本国では反主流に追いやられようとしつつあった。それはまもなく始まるレッド・パージによって明確になっていく。

 そうした潮流の中で、有能な若き進歩派知識人たちが占領下日本に官僚として大挙訪れていたのである。元来超保守派であるマッカーサーは統治の実務に関しては、実務派ホイットニーにまかせていたところがあった。そのホイットニー自身は進歩派ではなかったが、プラグマティックな観点から有能な進歩知識人たちをうまく使っていたということだ。その配下に憲法起草の中心的役割を担ったチャールズ・ケーディスがおり、その下多くの若手進歩派が集まったということだ。

 国際的ピアニストだった父親とともに戦前の日本に滞在していたシロタ氏は、アメリカの大学に学びそのまま戦争を迎えた。戦後、戦争中も日本にいた両親に会うためGHQに入り日本にやってきた。日本で10代の時期を過ごし、6ヶ国語に堪能だった若き才媛は、GHQ民政局で憲法起草に最初はアシスタントとして、すぐに権利関係の条文について中心的な役割を担っていく。

 そうしたことから日本国憲法制定にあって、知性と理想に溢れる若きアメリカ人女性が加わっていたということが、たいへん興味深く思えた。

 今回、彼女の事績や資料が展示されているということで、嵐山町に行ってみようと思ったわけだ。途中、ラベンダー園によったのはあくまでおまけである。

 国立女性教育会館は以前からこの地にあるのは知ってはいたけど、それがどういう施設なのかまではわからなかった。訪れてみるとここが女性関係の資料等をアーカイブする図書館であり、宿泊施設を兼ね備えた研究施設だということがわかった。

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 企画展自体はこじんまりしてしていた、小さな一室にシロタ氏の遺族から寄贈された遺品等を中心に展示されていた。

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 二箇所モニターが設置されていて、シロタ氏が晩年に日本を頻繁に訪れて講演会等を開いたときの動画などを繰り返し流していたけど、この動画を観ているだけで、シロタ氏の足跡や日本国憲法制定時のエピソードなどに触れることができて、飽きないというか有益かなとも思った。

 機会があればもっと早い時間に来て、ゆっくりと講演動画を見てみたいとも思った。階上のアーカイブ室ではより多くのDVDに記録されたシロタ氏の動画を見ることも可能なようだ。

https://www.nwec.jp/event/training/ecdat600000026pl-att/2019forumtirashi.pdf

千年の苑、ラベンダー園に行ってきた

 駅のポスターかなにかで見たのだと思うが、嵐山町にラベンダー園ができたというので行ってみることにした。

千年の苑ラベンダー園|一般社団法人嵐山町観光協会|埼玉県|嵐山町

 ラベンダーというと富良野の富田ファームとか玉原のラベンダーパークが有名。両方行ったことが一度だけあるけど、もっと近くに観光施設が出来たということなので、まあ一回くらい見に行ってもいいかとそんな感覚だった。

 天気は午前中は小雨が降っていたけれど、午後にはなんとか止んでくれた。

 場所はというと嵐山渓谷の近くなんだろうか、ナビでは国立女性教育会館を入れていて、途中で案内が出ていたのでそちらに回ったという感じ。鶴ヶ島からは関越に乗って、東松山で降ろされて、そこからは254を北上するみたいな感じだったのだが、正直、どこ走っているのかもわからないくらい。

 まあ広大な畑にラベンダーを植えましたというようなところである。これから観光名所となるかどうかはわからないけれど、まあまあ大きなラベンダー畑といった風で、花好きの人にはそこそこ楽しめるのではとも思う。

 こっちはというとお出かけ好きなカミさんが喜んでくれればというくらいの気持ちであり、自身のことをいえばあんまり興味はない。まあ花自体はけっして嫌いじゃないのだけど、こういうフラワーガーデン系って、遠目に見ている分にはいいのだけれど、花って近くで見るとさほどキレイでなかったりもするので、正直微妙な部分もあるにはある。ラベンダーもよおく見るとちょっとね、みたいな感じだ。

 さらにいうと自分は鼻があんまり良くないので、ラベンダーのあの独特の香りも楽しめない。ラベンダーの香りといえば「時を駆ける少女」の芳山さんが、フラスコの匂いを嗅いで気を失い、タイムトラベラーになるとかそんな話だったっけと脈絡なく思い出してみる。ラベンダーはタイムトラベルの能力を誘発するんだったか、あるいはその薬がラベンダーの香りに似ていたんだか。

 まあそれはどうでもいい話だが、自分はあの映画の原田知世が永遠のアイドルみたいな感じ大好きで、それこそあの映画は公開当時に劇場で多分5〜6回は観ているし、その後もVHSも持っていたしDVDも持っている。まあ本当にどうでもいい話だが、何十回観たかわからないくらい観ている映画だ。

 なのでラベンダーというと反射的に「時を駆ける少女」を思い出してしまう。

 話を戻そう。千年の苑は畑にラベンダーを植えた施設である。当然、バリアフリーなどというものはない。ところどころに段差もあるし、畑と畑の間には階段もたくさんある。ということで、車椅子利用者にはちとハードルが高い部分もあるかと思う。実際、カミさんの車椅子を押してラベンダー畑の間の遊歩道を歩いても、けっこう力を使うことになる。とはいえ、まったく車椅子では利用できないという訳ではないのだけど。

 見るところはある程度限定されるので、きちんと板張りの遊歩道などを整備するなどしてくれると有難いのだが、そこまで金をかけられるかとなると別問題かもしれない。

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国会前に行ってきた

 久々、国会前の抗議行動に参加した。

 仕事を終えてから、鶴ヶ島から国会前はいささか遠く、なかなか来ることが叶わないのだが、今回は自発的頭数として行ってみることにした。

 ある意味そのくらい、現政権のやることに腹を立ててもいるし、なんかしらのプロテストを行いたいという一心からだった。

 ウィークディということもあるし、急に決まった抗議行動ということもあり、集まった数は少ない。しかしみんな今の政治状況、日本の状況に対しての危機感と、居ても立っても居られないという思いからこうしてやってきたのだと思う。

 仕事を持つ身としては頻繁に足を運ぶことは難しいけれど、機会があれば抗議行動に参加し、政権へのプロテストを行いたいと思う。

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松方コレクション展に行ってきた

 上野西洋美術館、松方コレクション展に行ってきた。

松方コレクション展|開催中の展覧会|国立西洋美術館

 西洋美術館に行くのは久しぶりだ。だいたい二ヶ月に一度くらいは訪れているのだが、今年は3月に一度行ったきり。なかなか都内に出る機会と美術館訪問がマッチングしないというところか。

 企画展松方コレクション展は、西洋美術館の元になった松方コレクションの成り立ちと松方財閥の衰退と戦争によるコレクションの散逸といった歴史がわかる展示が成されている。

 松方コレクションは川崎造船所を率いた実業家松方幸次郎が、日本に西洋絵画を一望にする美術館を開館するという目的のもと収集された美術作品である。それは軍需による軍艦製造等で好景気に湧いた川崎造船所の収益がもとになっている。松方は造船所の利益を惜しみなくつぎ込んで美術品を買い漁った。

 しかし軍需による利益は第一次世界大戦終結関東大震災、金融恐慌等により川崎造船所の経営破綻とともに、収集されたコレクションも散逸することになった。それらは主にロンドン(約900点)、パリ(約400点)、日本(約1000点)にのぼるとされる。そしてロンドンの倉庫に保管された作品は空襲で焼失したとされている。日本のそれも多くが売りに出されたとされる。その中でパリに分散保管された作品は戦災を逃れた。

 戦後その返還交渉を行なったのは吉田茂の政府である。その過程で375点が返還され、それが西洋美術館開館の契機となった。しかし芸術的価値の高い作品の中には返還されないものもあり、その中には現在オルセー美術館に収蔵されているゴッホの「アルルの寝室」もある。この有名な作品が今回貸し出されて、企画展の目玉として展示されている。

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アルルの部屋

 ある意味、川崎造船所の興隆は日本の帝国主義化と機をいつにしているとはいえる。日露戦争とそれに続く軍拡路線の中での軍艦製造が、造船所の右肩上がりの伸長を支えていた。ある意味戦争特需によって出た利益が、美術品収集の原資となった。しかし戦争後の金融恐慌によりその利益は霧散し、コレクションは散逸することになる。

 戦争さえなければもっと膨大なコレクションを我々は今日目にすることができたかもしれない。日本に本格的な美術館開館を目指した松方幸次郎の崇高な意思は戦争によって潰えたのかもしれない。でも、もともと戦争特需のあぶく銭が原資となっていたといえば、なにかしらのアイロニーめいたものを思わざるを得ない。

 

63歳になった

 63歳になった。

 ポール・マッカートニー77歳になった。

 我が家の家系的にいうと、父親と祖父が亡くなったのは63歳の時である。つまり男系的にはこの年齢が鬼門といっていいのかもしれない。とはいえ平均寿命は昔と今では段違いでもある。ちなみに女系はというと、母は5歳の時に離別して以来音信不通なのでわからないけれど、祖母は98歳まで生きたから長命である。明治女のバイタリティ満載の女性だったから、これはちょっと別の話かもしれない。

 さらにいえば歩く成人病のような糖尿病、腎臓病を患っていて、週に3回透析を行なっている7つ上の兄は健在である。先日も透析を行なっている病院から電話があり、兄が透析の時間に来ないという。携帯と家電に電話してみるも呼んではいるが出ない。

以前、同じ状況で家にいってみると低血糖で倒れていて、救急車を呼んで一命をとりとめたことがあったので、最悪を想定して急遽出かけてみた。途中、念の為再度電話してみると、電話に出てすでに病院に行っているという。なんでも送迎バスに乗り遅れたのだとか。

 拍子抜けしたが、まあ無事でなによりという思いもありつつ、病院に来ないと連絡があるのに、来たという連学がないことに無性に腹が立ち、兄を叱り、病院にもクレームの電話をいれた。酷い話ではないかと思う。

 父が死んだのは1986年のことだ。もう33年も前ということになる。自分はまだ30歳だった。アル中で糖尿病、高血圧という成人病の百貨店みたいな人だったが、その頃にはだいぶ酒量も落ちていたけど、ある時医者にかかった時に血圧が300という驚異的な数字をはじき出し、医者から帰る際にはとにかく転ぶなというアドバイスをもらったと後で話を聞いたことがある。転ぶなと言う医者も医者だが、それを嬉しそうに話す父も父だとは思った。

 父はくも膜下出血で急逝した。夜勤明けで家に帰ってきたが、一緒にいた祖母に言わせると何かいつもに比べると妙に忙しなく、同じことを繰り返して言ったり、行動もへんだったという。自分で風呂を沸かして、服を脱ぎ浴槽に入る前に倒れたという。

 祖母は慌てて、私の勤務先に電話してきた。慌てた口調で「○○さんが風呂場で倒れている、大変だ、大変だ」とまくしたてた。祖母は父の名前をさん付け日頃から呼んでいた。

 電話でのやり取りから大変なことが起きていると思い、一度電話を切って勤務先から救急に電話をした。「父が風呂場で倒れている。意識がないようだ」と話して至急救急車を要請した。

 それから自宅に電話をして祖母に救急車を呼んだことを話した。しばらくそのまま電話を通話中のままにしておいた。だんだんと遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。祖母は玄関に出て、大声で「こっちよ〜」と叫んでいる。そうした声が電話口から聞こえてきた。

 救急隊の人間が電話に出て、かかりつけの病院とかがあるか聞かれたように覚えている。それから父の状況を聞くと、一刻の猶予もできない重篤な状態とのことだった。

 救急車が去ったのを確認してから、上司に訳を説明して急遽病院に向かうことにした。当時勤めていた神保町にある取次から自宅のある横浜までは1時間45分くらいかかる。電車の中で「父と死ぬな」と繰り返していたのも覚えている。

 病院に着くと父や集中治療室にいて、酸素吸入の度に体が起き上がるような状態で、もちろん意識はなかった。実際、父は翌日未明に亡くなったが、一度も意識が戻ることはなかった。

 父の尋常でない状態に自分も半分パニックっていたのかもしれないが、看護師から「あなた落ち着きなさい」と諭されたことも覚えている。

 だいぶ経ってから兄も病室にやってきて、夜になってから医師から病状説明があった。

今夜が山場になること。くも膜下出血の状態が酷く、回復の見込みは少ない。万が一一命をとりとめても植物人間のようになるというハードな宣告だった。

 その時は正直な思いとして、たとえ植物人間になっても生きていて欲しいと思った。その夜は兄と交代で父のベッド脇にいるようにした。日が変わってしばらくしてから、父と呼吸が次第にゆっくりとなってきた。その時、父の傍にいてボブ・グリーンのエッセイを読んでいたことも覚えている。

 ふと父の方を見ると、呼吸をほとんどしていないように見えた。慌てて看護師を呼ぶ。当直の医師も駆けつけて、いわゆる延命措置を行なった。心臓マッサージや胸に電気ショックをあてる例の処置である。人とおりの処置が終わると、医師は父の傍に立ち、脈をみてから「○時○分、ご臨終です」と自分たちに告げた。すべてがドラマでよく見る光景そのままだった。

 そう、あれから33年が経った。そして自分は父が死んだ年齢になった。

 父と祖父が同じ年に亡くなっている以上、自分もある部分強烈に自分の死を意識せざるをえない。実際、いよいよその歳になったかという感慨めいたものを感じている。

 高齢化社会にあって、63歳はまだまだという部分もあるだろう。しかしここで人生を終わることになるかもしれないというある種の強迫観念がある。それはずっと自分がかかえてきたことでもある。

 遅くにつくった子どももようや来年大学を卒業という年齢になった。無事勤めに出てくれればそれはそれで一安心というところだ。片麻痺、一級障害者の妻のことを思うと、まだまだ自分が頑張らなくてはいけないとは思う反面、こればっかりは仕方がないだろうと思う部分もある。

 幸い借金はない。蓄えは最近話題になっている夫婦で2000万には程遠いかもしれないが、持ち家だし妻には年金も出ている。妻と子どもがどうにか凌いでいけるくらいにはなんとかなっているのではないかと、甘く、甘く見積もってもいる。

 仕事に関しては、かなりシビアな状況が続いていて、もうしばらくは今の役職で取り仕切って欲しいとは言われてはいるが、ストレスは溜まるばかりである。本当のことを言えば、仕事をやめてわずかな期間でも好きなことをやってみたいという思いがある。

 とはいえ大それたことを考えているのではない。読みたい本を読む、観たい映画を観る、もう少し沢山の絵画を観る、ニューヨークやパリでゆっくり絵画鑑賞をしたい、そんな程度のことだ。

 仕事を辞めたとたんに病気になる、急死する、そういうのだけはなんとか避けたいとは思うのだが、なんとなくそんな風にして終わるような予感もある。まあ人生なんてそんなものかもしれない。

 今日、自分は63歳になった。父と祖父が亡くなった年齢だ。

テデスキ・トラックス・バンドのライブに行ってきた

 先週の土曜日、東京ドームシティ・ホールでのライブに行ってきた。このバンドのライブは単独での初来日の渋谷公会堂、2回目の人見講堂、3回目の武道館と、なんだかんだで全部行っている。こういうアーティストは多分初めて。

 どこかそれほどいいかというと、とにかくライブ演奏のクオリティの高さに尽きる。12人編成のビッグバンドだが、やはり主役はデレク・トラックスのスライドギター。もう神技に近いと思う。手弾きなんだけど、どんな親指してるんだろうと思ったりもする。

 手弾きのギタリストは沢山いるし、まあ古くはジャズのウェス・モンゴメリーなんかもそうだ。ロック系ではニルス・ロフグレンなんかがお気に入り。ウェスもそうだが、ピックではなく手弾はちょっと柔らかい音になるんだと思う。まあニルスはサム・ピック使っているからけっこうソリッドだけど。

 でもってデレク・トラックスはというと基本はやっぱり柔らかい音なんだが、柔和というのではない。いかにもサザン・ロック風な音、やっぱりどこか出自のオールマン・ブラザースっぽい。そのへんが好きななんだが。

 このグループは、デレクとスーザン・テデスキ夫婦の双頭バンドなんだが、そこにデレクが以前バンドを組んでいたデレク・トラックス・バンドのメンバーを中心にとにかく芸達者なメンバーで構成されている。ギター2、ベース、キーボード、ドラム2、バック・コーラス3、さらにホーン隊としてサックス、トランペット、トロンボーンという編成である。デレク・トラックスサイドギターとスーザン・テデスキのボーカルをメインにしながら、そこに重厚なグループサウンドが絡む。レコードを凌駕するようなパフォーマンスが堪能できる。

 結局のところ、ライブパフォーマンスがすべてなんだと思う。かってのジャズメンたちも秀逸なスタジオ・レコーディングとは別に、何百、何千という数のライブを高いクオリティでこなしていた。得てしてスタジオよりも素晴らしい名演奏を繰り広げてきた。さらにいえばスタジオ・レコーディングさえ、ある意味スタジオ・ライブの様相であったりした訳だ。

 熟練のテクニックに裏打ちされた瞬間としてのパフォーマンスというライブ演奏の本質部分が毎回展開されている。それを味わえるところがこのバンドのライブを繰り返し観る理由なんだと思う。

 このグループの演奏には、かってエリック・ドルフィーが言ったという言葉がよく似合うような気がする。

When you hear music,after it's over,it's gone in the air. You can never capture it again.  

  ライブのレビューはこの方のブログが参考になった。

 セット・リストもそのまま引用させていただく。

1. Anyday(デレク&ザ・ドミノス

2. Laugh About It(アルバム:『Let Me Get By』)

3. Hard Case(アルバム:『Signs』)

4. Don’t Drift Away(アルバム:『Made Up Mind』)

5. Get What You Deserve(デレク・トラックス・バンド『Already Free』)

6. I’m Gonna Be There(アルバム:『Signs』)

7. Sweet Inspiration(デレク・トラックス・バンド『Already Free』)

8. Don’t Keep Me Wonderin'(オールマン・ブラザーズ・バンド

9. Let Me Get By(アルバム:『Let Me Get By』)

10.Just As Strange(アルバム:『Let Me Get By』)

11.How Blue Can You Get(B.B.キング

12.Idle Wind(アルバム:『Made Up Mind』)

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<アンコール>

13.Shame(アルバム:『Signs』)

14.Space Captain(ジョー・コッカー

  残念ながら大好きな「ミッドナイト・ハーレム」の演奏はなかった。これは大阪、名古屋とライブを続け、東京での3回の公演の2日目ということで、少しセットを変えてきたからなのかもしれない。アンコール曲でもいつものスティービー・ワンダーの「Uptight」でも、スライの「I Want To Take You Higher 」でもなかったし、なにやら3日目にはやったジョー・コッカー仕様の「With A Little Help From My Friends」でもなかった。もちろんジョー・コッカーの「Space Captain」はよくアンコールでやるということは聞いていたので、生で聴けたのはラッキーだと思う。

 あと、ライブでは定番である「Bound For Glory 」、「 Made Up Mind 」もなかったのもレアといえばレア。以前、多分2回目か3回目のライブで聴いた「Idol Wind」が聴けたのも嬉しかった。

 メンバーはウィキペディアにあったので引用しておく。

テデスキ・トラックス・バンド - Wikipedia

 このグループの中核メンバーである、キーボードのコフィ・バーブリッジは今年の2月に亡くなったのだという。ゲイブ・ディクソンはその代役として参加しているという。

 また改めてプロフィールを確認すると、デレク・トラックスは1979年生まれで今年40歳となる。天才ギター小僧も立派な中年オヤジになるということ。そしてスーザン・テデスキは1970年生まれ、姉さん女房とは聞いていたが9歳も上だとは。49歳になるというが、美貌も含めライブスタイルはまったく変わらない。

 あと、スーザン・テデスキの英語のウィキペディアをみると、二人の間には子どもが二人いるとか。長男はチャールズというのだが、その名はチャーリー・パーカーチャーリー・クリスチャンからとったのだとか。そして長女の方はなんとネイマという。もちろんコルトレーンの最初の妻、あのネイマからである。二人の音楽趣味の広さ、意外とジャズ・ファンであることが垣間見えて、ますます好きなった次第だ。