官邸前抗議行動に参加する

 午前中は来客でほぼつぶれた。午後は歯医者に予約を入れておいたので昼から都内に出た。歯医者の後は4時から会議があり終わったのが6時ちょい過ぎ。その後、意見交換をかねて部下と少しだけ酒を飲む。小1時間で終了。

 最後に部下から子どもが不登校になりかけていてという話が出て、少しだけびっくり。親子ともいろいろ悩んでいるようだが、あまり無理せず子どもが休みたいというなら、しばらくはそうさせてやるのもいいかもみたいな話をする。

 その後、久々に官邸前の抗議行動に参加しようと思った。SNSで今日やるということは知っていたので、まあ最近は官邸前とか国会前のデモにも行っていないし、最近の自民党総裁選を巡る情報やら、まったく真相解明が進まない森友加計問題、公文書改竄問題などへの憤りもあり、義憤を抱える一市民としての参加みたいな気分だった。

 

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ランドマークタワーに登る

 美術館の後、家族三人でランドマークタワーでスィーツを食す。それから何気にランドマークタワーの展望台に行ってみようということになる。展望台に行くのは初めてのことあ。

 ランドマークタワーは1990年着工、1993年7月に開業した。25年も前のことだ。当時、自分は何をしてたかというと、多分児童書系の出版社を辞めて鎌倉の地方出版社に移った頃だっただろうか。まあそこは半年くらいで辞めて94年には今の会社に転職した。そして95年には結婚し96年には埼玉に引っ越した。翌年には子どもが出来た。

 ある意味、いろんなことが駆け足で過ぎていった頃でもある。みなとみらい地区についてはほとんど感慨もない。大昔は貨物線の操車場があり、三菱の造船所があった。ランドマークタワーはまさしく造船所の跡地に作られたはずである。

 十代の頃、特に受験生の頃から、ほとんど毎日紅葉坂の青少年センターの自習室で受験勉強をし、飽きると野毛のジャズ喫茶ダウンビートに行ってダラダラと過ごした。大学に入ってからも野毛がベースだったと思う。勤めてからもダンビート通いは続いたし、みなとみらい地区が整備され始めてからもそれは変わってはいなかったが、自分が足を運ぶのは野毛の雑踏であり、きれいに整備された駅の向こう側に行くことはほとんどなかった。みなとみらい地区は自分にとって横浜ではないような気がしていた。

 埼玉に引っ越してからすでに20年以上の月日が経った。今、横浜に足を運んでも、それこそ埼玉のイモがお上りさんしているようなものである。桜木町の駅から東横線も消えてしまったし、何より自分のホームタウンであった野毛でさえが、キレイな若者の街になりつつあるようだ。

 20年という月日はそういうものなんだろう。ランドマークタワーが出来た頃はバタバタとしていたこともあるし、どうにも馴染みにくい場所ではあったこともあり、あの展望台に行くことはなかった。そして開業して25年、初めてそこに行ってみた。そこに目にした景色は、故郷の変貌した姿ということに尽きるような気がする。

 以下、お上りさんらしく写真を何枚もとったのでアップする。

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  コスモワールドから遠くに大桟橋、山下公園氷川丸を臨むっていう感じか。

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  やはり富士は基本。

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  横浜スタジアムではナイターやっているみたいだ。自分が生まれた場所は多分、浜スタから左斜め上に行ったあたり、緑が始まるあたりのところだったように思う。

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 山下公園の方を観る度、横浜は変わったなとつくづく思う。マリンタワーがほとんど目立たなくなってしまっている。

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モネ それからの100年

 子どもの運転はようやくペーパーの域を脱したかどうかといったところだが、それでもだいぶ慣れてきてはいる。

 今日は子どもに運転させて横浜まで足を伸ばした。子どもにはとりあえず横浜へ行くとだけ言っておいたのだが、目的はこれ。

モネ それからの100年 | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館

 久々の横浜美術館である。子どもは着いてから、絵を観るんだとあまり納得していない様子。普通に観光だと思っていたようだ。

 この企画展は、モネの影響、モネにインスパイアされた後の画家たち、特に現代アートの画家との関連をたどるというもので、名古屋市美術館横浜美術館で持ち回りしたもので春から名古屋、横浜は夏に開催されている。国内外からモネの絵を25点、モネとの関連のある現代アート作品が66点が展示される。

 モネの晩年の作品は、彼の特徴ともいうべき筆触分割による光の表現による風景画とは異なり、およそ具象から離れ、様々な色の混ざった塊のような抽象的作品が多くなっている。

 これは主に彼の目の病気、白内障によるもというのが一般的である。彼の視力はいっとき失明の危機もあったというが、手術の成功によりある程度視力を取り戻したともいわれている。とはいえ最晩年のモネはやはり相当に視力が弱っていたようで、彼の見える世界はほとんど抽象的かつ漠然としたものになっていたのではないかと思う。それがそのままキャンバスに描かれていると。

 数年前に東京都美術館のモネ展を観た時も最晩年の絵が何枚も展示されていたが、そこに描かれた彼の庭のバラ園は、ほとんど抽象画のそれだった。なんとなく重層的に色彩を重ねたポロックのドリッピング・アートみたいなだと思ったくらいだ。

モネ それからの100年 | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館

 今回の企画展もモネの最晩年のそうした絵画と抽象絵画との関連性を追ったものと理解できる。

 しかし常々思っていることなんだが、印象派の筆触分割は次第に新印象派的な色彩分割、点描へと向かう。その点描が次第に大きくなることで、光の表現から色彩の表現へと変化していく。点描が大きな色の面へと移行するにつれ、そこからフォーヴィズムが生まれる。まあ適当にそんなことを考えた。

 それに対して、この色彩をより重層的に重ね合わせたり、偶然性に依拠したドローイングやドリッピング、あるいは計算された幾何学的な文様へと変化させるところから、抽象絵画へと変質していく。素人考えでいえばそんなところだ。

 そうした現代絵画の騎手たちが先駆者として讃えたのは、もちろんピカソでありマティスであったりとするのだが、ある人々にはセザンヌであったりもするし、もちろん今回のモネであったりということなんだろう。

 しかし日本人は印象派好き、モネが大好きである。展覧会末期の日曜日ということもあり、多くの人が詰め掛けており、絵をゆっくりと観るような余裕はなかった。特に音声ガイドの弊害といっていいんだろう、ガイドがある絵の前には多くの人が立ち止まったままという状態。結局、絵を観るよりも音声ガイドを聴いているというのが実態なんではと思える。まあそんなところだ。

 モネの25点の絵には、割とおなじみのものが多かった。西洋美術館、東京富士美術館、ポーラ美術館などなどで何度も観たものが何枚もあった。それとは別に吉野石膏美術振興財団が所蔵し山形市美術館に寄託している作品が数点あったが。ここは調べるとモネ以外にも多数著名な画家の作品を所蔵しているようで、ちょっと気になるところだ。

yoshino-gypsum.com

 展示作品の中で気に入ったものはこんなところか。人手が多くゆっくりと鑑賞するわけにもいかなかったので、割とざっくりとした印象である。

 

<サン=タドレスの断崖>

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サン=タドレスの断崖

 これは1967年の作品で、モネがブーダンバルビゾン派の影響から脱し、印象派に移行し始めた頃の作品かとも思う。ただし、空の雲の表現になんとなくブーダンの影響を感じる。いずれにしろこの絵は心がなんとなく動く。シスレーピサロに対して感じるような親近感だ。

 

<霧の中の太陽>

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霧の中の太陽

  この絵は1904年の作品、どことなくモネの代表作「印象、日の出」と同じような題材、色彩である。初期作品へのオマージュを感じさせる。驚くことに、この作品、個人蔵である。この作品を所有するというのは、もうどんだけ金持ちなんだろうと、つい下世話的に想像してしまいたくもなるのだが、なんにしろ羨ましい限りではある。

 その他、気になった作品をいくつか。

 

<Garden1 丸山直文L>

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Garden1 丸山直文

 モネへのオマージュというが、自分にはなんだかヴァロットンの「ボール」を想起させる。やや俯瞰からの子どものボール遊びを描いたあたりに近似的なものを思うのだが、これはちょっと勘違いだろうか。

 

     「無題(WC00956)」        「Simplicity(SEP80-68)」

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サム・フランシス

 サム・フランシスというと画面全体が白地一色みたいなモノトーンな作品を思うのだが、これは鮮やかな色彩を獲得している。なにかワクワクとしてくる。なんとなく瑛九の作品との関連を思わせるが、モネとの連関で語るとなると、ちと微妙かもしれない。

 その他では、常設展で森村泰昌の作品が一室を飾っていたのだが、これのインパクトがあり過ぎて、正直なところモネの企画展の印象が全部吹き飛んでしまった。

 芸術は爆発ならぬ、インパクトだなという思いとともに、美学の暗黒面に晒されてしまったような後味の悪さというか。

森村泰昌フリーダ・カーロ

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 なので最後に下村観山の「小倉山」なんかで口直しを。

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はてなダイアリーからはてなブログへの移行についての諸々

 はてなダイアリーからはてなブログへの移行については、4日間と時間はかかったが、それなりにスムーズにいった。記事は全部きちんとブログに移行された。と思いきや、けっこうな落とし穴があちこちにあって、これについてはもう「う~む」と唸るか、「ハ~」とため息をつくか、みたいな心象風景なのである。

 その第一にして総てといっていいことなのだが、リンクがうまくいってないということ。特に、特にであるが、Youtubeのリンクがまったく移行されていない。はてなダイアリーからはてなブログに移行した記事で、Youtube動画をリンクさせた記事はその部分が空白のままになっている。

 そこで編集ボタンをクリックし、はてな記法を確認してみるとこんな感じである。

「 http://www.youtube.com/watch?v=lj8LEL4gbQU~~ :movie 」

  正直なぜなのかわからない。なのでいろいろと調べてみると、はてなブログで動画のリンクを貼るには「:movie」ではなく「:embed」と記述する必要があるということらしいのである。なので試しに記述を変えてみる。

「 http://www.youtube.com/watch?v=lj8LEL4gbQU~~ :embed 」

 すると見事、見事、動画がきちんとリンクされた。

 さらにである、通常のリンクの記法として最後に「:title」と書くのだが、はてなダイアリーの場合は、この「:titile」が小文字でも大文字でも問題ないのだが、はてなブログの場合は小文字だけなのである。

 そうなると移行したはてなダイアリーの中にYoutubeのリンクが、通常のリンクで末尾を大文字にしたものがどれだけあるのかどうか。1700日以上、2300以上の記事である。これはもう本当に「は~」とため息だけである。

 なので、つらつらと記事を適当に見つつ、見つけたYoutubeのリンクありの記事を編集モードにして、「:movie」を「:embed」に変える。これをもうひたすら行う訳だ。そうしながらも、なんとなく懐かしい思いにかられながら昔の記事をチラ見したりする。

 そういう地道な作業が延々と続きそうな今日この頃なのである。最も、ウェブデザインとかにたけhtml記法とかに長けた方々からすれば、自分のような素人のこうした徒労については、「なにやってるんだろうね、ド素人は」的なことなのかもしれない。

 とはいえ素人には素人なりの悩みもある訳で、時間さえかければ簡単に移行できると考えていたはてなダイアリーからはてなブログへの移行が、思わぬ展開になってきて、少しだけはてなに対する呪詛の言葉をぶつぶつと呟いているところだ。

はてなブログへのダイアリー移行完了

 来春、はてなダイアリー終了ということで、これはこれで致し方ないことと受け止める以外にはない。

 もとより筆不精の自分が14年もの間、断続的とはいえ続けてこれたのもひとえにはてなダイアリーのお陰ともいえるかもしれない。なので来春までの間に幾つかの決断をしなくてはいけないかとも思った訳。

 まず一つは、もうこういう後悔(もとい)、公開日記のようなものはやめてしまうか。まあせっかくダラダラと続けてきたので、はてなのお願いに素直に従って、はてなブログに移行するか、もしくは別のサービスに乗り換えるか、である。

 さほど思案することもなく、三番目の乗り換えは選択肢から消えた。面倒くさいというのがまずある。だいたいのところ最近のブログサービスの事情などまったく知る由もなしである。

 次に最初のやめるかというと、これもまた「せっかく」という言葉が頭によぎる。自分にとってこの公開日記風の記録は、ある意味「生活綴方教室」の実践である。生活を記録し、思ったこと、ものの見方を記録することで、生活を見なおす契機にするみたいな、まあそういう風な類のことが漠然とある。60過ぎて生活を見なおすもどうかという気もしないではないが、まあそれはそれとして置いといて、生活を記録する、自分という存在の生きた記録、考えたことの記録、享受したことの記録を残しておいてもいいかという思いもある。

kotobank.jp

 そういうことでまあもう少しは続けるかということになる。となると、はてなダイアリーをブログに移行する必要がある。ということでいざやってみようかと思いきや、まあ皆考えることは一緒みたいで、一気にはてなダイアイリーからはてなブログへの移行が殺到したいみたいで、一時移行サービスがストップしていた。それが9月4日だったか、はてなブログにアクセスしてみると移行サービスが可能だったので、早速やってみた。

 それに併せて事前に開設したはてなブログのデザインとかも少し整えてみたりもした。しかしそこから長い、1日たっても2日たっても移行中のまま。ようやく移行が終わったものは閲覧可能になるのだが、2018年から2014年くらいでずっと停滞を続け、昨日あたりは一挙に2008年くらいまでいき、ようやく今日、2004年まで行き着いた。

 まあ14年間の記録でありデータ量が約1700日分、訳2300超の記事である。とくに2005年~2006年あたりはちょうどカミさんが病気で倒れ、その看病、介護の記録がずっと続いていたりもする。今、読み返しても本当に毎日綱渡りの日々だったと思うが、それなりにきちんと記録しておいて本当に良かったとは思っている。

 さらにいえば、この14年間は自分にとっては妻の介護、子育て諸々、仕事の日々であった。ほぼの三つをまあ全部不完全ではあるが、なんとかこなしてきた、凌いできたということでもある。

 妻の介護はまだまだ続く、多分ずっと続く。子育てについていえば、再来年には就職することになるはずなので(なってくれ)、ある意味一段落になるはず。仕事は、う~む、まあ62だし、そろそろリタイアを真剣に想定する時期ではある。まあ任期自体はあと1年、多分健康が許せばもう一期はいけそうな気もするが、なんとなく心持としては、そろそろ仕事的な肩の荷を下ろしたという気もしないでもない。

 とはいえまだまだ背負うものが多い。ずっと続くだろう妻の介護、七つ上の兄のこともある。子どもも順当に就職してくれるかどうかには不安要素もある。それを思うとまあ仕事があるのは幸運といえば幸運なのかもしれない。

 そんなこんなの14年間のダラダラ記録が4日間ではてなブログに移行された。はてなの公式声明では、はてなダイアリーは来春のサービス停止後も閲覧可能状態にということになるので、当面はてなダイアリーとブログの二つをそのまま公開設定にするつもりではいる。そのうえで更新についてはすべてはてなブログで行っていこうと思っている。まあそれも当分の間、みたいなことになるのではないかとは思う。どこかのタイミングでダイアリーの方は店仕舞いといことに多分なるのだろう。

 

否定と肯定を観る

 

否定と肯定 [DVD]

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映画 『否定と肯定』公式サイト

  TSUTAYAで借りてきた。

 米国の女性歴史学者ホロコーストの研究者が、ホロコースト否定論者から名誉棄損で訴えられ、法廷で闘った話である。訴えられた研究者はアメリカ人であり、否定論者はイギリス人であり、舞台となる法廷はイギリスである。

 通常、名誉棄損は訴えた側に挙証責任があるのだが、イギリスはなぜか訴えられた側に立証責任がある。研究者と出版社(ペンギンブックス)は大弁護団を構成して裁判に臨む。

 否定論者はこういう。「ホロコーストはなかった。なぜならヒトラーユダヤ人虐殺の命令書を書いていないから」。これは日本の歴史修正主義者の論法そのままだ。

 そして同様に現在の日本の政治状況にもまったく当てはまる。

ホロコーストはなかった。なぜならヒトラーユダヤ人虐殺の命令書を書いていないから」

「森友加計問題に総理も夫人も関係していない。なぜなら総理が指示したという証拠がないから」

 安倍政権は森友加計問題の疑惑をすべて否定し、挙証責任は疑惑を論う側にあるとする。疑惑の否定に対しては、「〇〇が一点の曇りもないと言っている」といった類の伝聞や、「妻の疑惑については夫の私がないと否定している」といったおよそ証明にならない言い切りだけである。

 さらにいえばホロコーストや戦前の日本軍の行ったことの証明が難しいのは、ナチスドイツが、大日本帝国が、戦争末期から敗戦残後に、徹底した資料、記録の焼却を行ったからである。記録がないため、犯罪的行為の立証が困難になる。すると否定論者は何も記録がない、要するに犯罪的行為などはなかったのだと言う。

 これもまた現在進行形の話にも出てくる。森友学園問題では財務省が公文書の偽造や廃棄を行った。記録を改竄し廃棄してしまえば、行った不正自体がないものとされるのである。

 映画は実際にあったことに基づいている。裁判は結果としてホロコースト否定論者の敗訴に終わる。ある意味ハッピーエンドだ。しかし否定論者は敗訴の事実を受け入れることなく、ホロコーストがなかったことを、ヒトラーがなにも悪いことをしていないということを信じ続けている。なにも変わらない現実が続く。そしてまた第二、第三の否定論者がホロコーストはなかった、ヒトラーユダヤ人虐殺を命令していないと言いつのるのである。

 関東大震災時の朝鮮人虐殺、軍隊による強制された従軍慰安婦南京大虐殺についての言説のように。

 この映画については、映画評論家町山智浩の解説が詳しい。

https://miyearnzzlabo.com/archives/46042

シャークネードを観る

 以前から、とんでもない映画らしいという評判は聞いていて、ぜひ一度観てみたいと思っていたのだが、TSUTAYAで見つけたので借りてきた。実はYouTubeとかでアップされた動画で、これすごいおバカと教えてくれたのはうちの子ども。なので子どもと一緒に観た。

 

シャークネード [DVD]

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  しかし設定がもう普通にバカである。大型台風によって発生した竜巻によって巻き上げられた数万匹のサメが降ってくる。ただ降ってくるのではあく、人を襲うのである。一撃必殺的に食らいつくのである。もうどこから突っ込んでいいのか。それに対して人間は、サメを避けながら、逃げながら戦うのである。武器はなにか、なんとチェーンソウである。飛びかかるサメをチェーンソウで一刀両断にするのである。

 途中からもうこの映画は、ツッコミを入れてはいけない映画だと思った。そんなトンデモ設定なのに、登場人物たちは真面目に、真剣にサメと戦うのである。これが凄いというか、滑稽過ぎるというか。

 聞けばこれシリーズ化されていて、すでに「シャークネード4」あたりまで出来ている。さらにいえばシャークネタはこれだけでなく、巨大なサメ=メガシャークものから幽霊化してどこでもあらわれるゴーストシャーク、さらには雪山を舞台に雪の中を泳ぎ人を襲うアイスシャークなるものもあるのだとか。

 聞けば聞くほどアメリカ人はどんだけサメ好きなんだと思わざるを得ない。まあそれだけスピルバーグの「ジョーズ」シリーズが人気を得たということなんだろう。これだけパロディものが氾濫しているところをみると、ジョーズアメリカの国民的映画として一ジャンルを築いているのかもしれない。