佐野美術館「没後5年 堀文子」展 (4月20日)

 

 堀文子を知ったのは2年前のこと。五浦の天心記念五浦美術館で足を運んだときに、たまたま「成川美術館コレクション展」をやっていて、そこで初めて知った。成川美術館が箱根にある近代以降の日本画専門美術館であることも初めて知った。そのときには山本 丘人の秀作の他、女流画家の作品では堀文子と森田りえ子の作品が印象深く残った。

天心記念五浦美術館~成川美術館コレクション展 (6月18日) - トムジィの日常雑記

 そして昨年には初めて成川美術館に訪れ、堀文子の作品にも再開した。「花の画家」と評されること、70代でイタリアト、スカーナ地方のアトリエで制作に取り組んだこと。その時に描いた花いっぱいの田園風景の華やかな大画面の絵が、気に入った。

 堀文子は長命でキャリアが長い人だ。1918年(大正7年)に生まれ、2019年(平成31年)に101歳で亡くなった。女流画家は長命というイメージがある。小倉遊亀は105歳、片岡球子は103歳でそれぞれ亡くなっている。堀文子はそれに次ぐ。

 1918年(大正7年)、大正世代というと、自分の父が1923年(大正12年)の生まれなので、父よりも5歳上ということになる。でもなんていうか自分からすると親の世代ということになる。なんとなく親近感がわくような気もする。

 堀文子の同世代の画家というとどのへんだろうか。ざっとあたってみると、例えば菅井汲(1919年生)、横山操(1920年生)、加山又造(1927年生)、草間彌生(1929年生)、平山郁夫(1930年生)と、このへんが同世代の画家ということになる。横山操や加山又造平山郁夫よりも年長であるというのが、ちょっと意外な感じがする。

 堀文子の年譜によると、14歳で福田豊四郎の作品を知り共感を覚え、18歳で女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学、在学中はアンリ・ルソーの<蛇使いの女>の写真に感銘を受ける。22歳で女子美術学校を卒業、その後2年間東京帝国大学農学部の教室で農作物記録係を務めたとある。植物彩画をずっと描いていたということになる。また第3回新美術人教会展に出品して奨励賞を受賞するなど、職業画家としての道を歩んでいる。同じころにルネサンスの画家ピエロ・デラ・フランチェスカに感銘を受けたとも。69歳の時にイタリア、トスカーナ地方にアトリエを構えたのも、トスカーナで制作を続けた500年以上前にその地で画業を続けたピエロ・デラ・フランチェスカへの思いがあったのだとも。

 福田豊四郎、アンリ・ルソー、ピエロ・デラ・フランチェスカといった画家が、堀文子のバックボーンになっていたのは間違いないところだ。特に初期から中期にかけての作品にはこの三人の作品の影響が強く感じられた。さらにいえばその時その時で、堀は様々な画家の画風、美術潮流を受容している。キャリアの後半になっても、例えばパウル・クレー風な作品、ジョアン・ミロカンディンスキー風の作品などを実験的に試している。

 その後も学校教師を務めながら画業のキャリアを積んでいく。戦後の1946年、28歳で外交官の箕輪三郎と結婚する。1949年30歳のとき、創造美術に参加して奨励賞を受賞している。創造美術は1948年に「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」と宣言して始まった新しいグループで橋本明治、吉岡堅二、山本 丘人、福田豊四郎、上村松篁、秋野不矩らが集った。そして翌年には堀口も参加している。

 戦後の新しい日本画の革新性のある団体だったが、ほとんどのメンバーが40代の中堅作家であり、一番若いほうの堀文子でも30歳になっていた。これについて堀は、革新的な仕事をするには高齢過ぎるが、その原因は戦争で若い世代が戦死してしまったことだったと述懐している。

 1960年42歳のときに夫箕輪三郎が死去する。それを機に翌年の1961年に海外に旅立ち、3年近くに渡ってエジプト、ギリシャ、イタリア、フランス、アメリカ、メキシコを巡る。

 1964年に帰国後は旺盛な画業活動を続ける。以後、絵本などに活動範囲を広げるが、1975年に57歳でイランに旅行。1979年61歳のときに軽井沢にアトリエをもち、大磯と行き来の生活を始める。そして1987年69歳でイタリア・トスカーナ地方のアレッツオにアトリエ設けてイタリアと日本を行き来する生活を1992年74歳まで続ける。それ以降の彼女のアグレッシブな海外渡航は回数も増えていく。

1995年2月(77歳)アマゾン、メキシコに取材旅行

1995年6月(77歳)イタリア旅行

1996年6月(78歳)ポルトガル旅行

1997年春    (79歳)ネパール旅行

1998年2月(80歳)ヒマラヤ旅行

1998年3月(80歳)ペルーでインカ文明取材

1999年7月(81歳)ヒマラヤ山麓に幻の高原植物ブルーポピーを求め取材旅行

2000年7月(82歳)ネパール旅行、ブルーポピーをスケッチする

 その後海外旅行は断念するが、高価な顕微鏡を入手しミジンコやクリオネアなどの観察、また水族館でクラゲ観察などを続けたという。年を追うごとに好奇心が増し、アグレッシブになっていく、そういう稀有な人だったんだなと改めて思った。

 

 また堀文子は1978年から1982年までNHKきょうの料理』テキストの表紙を担当している。彼女の絵に親近感があるのはそういうところもあるかもしれない。あの手の雑誌は手に取ることがなくても、書店に行けば必ず目に触れるところがある。なんなら平松礼二の絵にもどこか既視感があるのも、彼が長く月刊誌『文藝春秋』の表紙を担当していたせいかもしれない。

 

 気になった作品をいくつか。

<自画像>

<自画像> 1939年(昭和14)油彩/カルトン 33.0×23.4

 21歳、女子美大の頃の作品。日本画部の学生だったが油彩にチャレンジしている。堀のコメントは「自立するための方法を消去法で考えて、絵の道に進み、初めて努力することを決心したのです」とある。そういう強い意志性を感じる。野心ある若い女性の姿だ。髪の毛の表現とかどこか中村彝<エロシェンコ像>を思わせる部分もある。油彩による習作でもあり、また自己の思いを表出させようとした意欲的作品にも見える。

 

八丈島

八丈島> 1950年(昭和25)紙本彩色 91.5×73.0 株式会社米八グループ

 第2回春季創造美術展出品作で32歳のときの作品。この年1月に堀文子は創造美術の会員となっている。左側の簡略化された木のイメージは、堀文子のキャリアの中で繰り返し登場する。

<海辺>

<海辺> 1950年(昭和25) 紙本彩色 112.0×135.0 株式会社米八グループ

 こちらは9月に開かれた第3回創造美術展に出品された作品。春の<八丈島>と同じく福田豊四郎の影響が濃い。後景の海水浴する人物造形にはどこかピカソを感じたりもする。戦後日本の日本画の革新、日本画から日本の絵画を模索する作家の新しい表現といえるのかもしれない。

<月と猫>

<月と猫> 1950年頃(昭和25年) 紙本彩色 100.0×72.7 株式会社米八グループ

 これも1950年の作品。こちらは幻想的な不思議風猫。アンリ・ルソーの受容を思わせる部分もあるか。堀文子は40歳くらいから絵本など児童書制作を手掛けている。このへんの画風の延長上かもしれない。ますむらひろしも若い頃にどこかで堀文子の絵に出会っていたのではと適当に想像している。

<街>

<街> 1957年(昭和32) 紙本彩色 73.0×117.3 株式会社米八グループ

 大4回日本国際美術展に出品した作品。39歳の堀文子はパウル・クレーをやってみたかったのだろうか。もはや画壇でも中堅に位置しながら、こういう明らかな受容的作品を描いてしまうところがある意味凄いと思ったりもする。

<冬野の詩>

<冬野の詩> 1988年(昭和63) 紙本彩色 140.0×190.0 株式会社米八グループ

 堀文子の代表作の一つでもある。1979年に軽井沢にアトリエをもち大磯と行き来していたが、おそらく厳しい冬の軽井沢からインスパイアされたのだろう。幻想的、詩的、そして装飾性など、堀文子のエッセンスが凝縮されている。この絵を発表する前年の1987年にはイタリア・トスカーナにもアトリエを構え、日本とイタリアを行き来するようになっていた。70歳の作品だが老成することなく、どこかみずみずしい感性を感じさせる。

<極致の宇宙に生きるものたちⅡ>

<極致の宇宙に生きるものたちⅡ> 2002年(平成14) 紙本彩色 45.5×38.0
 株式会社米八グループ
<妖精(クリオネ)と遊ぶ> 

<妖精(クリオネ)と遊ぶ> 2003年(平成15) 紙本彩色 53.1×41.0 
株式会社米八グループ 

 83~84歳頃の作品。堀文子は2001年に解離性動脈瘤で倒れたが奇跡的に治癒したという。82歳の時にネパール旅行をしているが、この頃からは顕微鏡で極小生物を観察するのが日課になっていたという。ミクロの世界のキラキラをみずみずしい感受性は、こんなファンタジーとして結実させる。ミクロの世界は具象がそのまま抽象性を帯びているという不思議さ。

 ミロやカンディンスキーが頭の中でこねくり回した末に現出させた抽象的世界を乗り越えるかろやかさ。「顕微鏡をのぞいてごらんなさい。リズムや音楽、ファンタジーがありますことよ」と笑っておっしゃるかもしれない。

<アフガンの王女>

<アフガンの王女> 2003年(平成15) 紙本彩色 116.3×66.6

 モデルはあの黒柳徹子である。堀文子85歳、黒柳徹子70歳の時の作品。

 

 今回の出品作品の一覧を見ていると、株式会社米八グループという名前をやたらと目にする。調べると全国のデパ地下で店舗展開をしている「おこわ米八」のグループ統括会社のようで、堀文子の作品を多数所蔵しているようだ。創業者がファンなのかどうかわからないけれど、がぜん「おこわ米八」に親近感を覚えてきた。デパ地下で店舗を見つけたら、「あっ、堀文子いっぱい持ってるとこ」みたいなこと思うかもしれない。なんとなく美味しそうな「おこわ」みたいには思っていたので、今度買ってみようかと思ったりした。

伊豆旅行に行ってきた③ 沼津・三島 (4月20日

 旅行最終日。今まで行ったことがない所ということでチョイスしたのは北伊豆エリア。三島とかって通過したことはあるけど、訪れたことがあるのは箱根からちょっと寄り道した三島スカイ・ウォークくらい。ということで今回は沼津・三島エリアに行ってみることにする。

 

沼津御用邸記念公園

沼津御用邸記念公園

沼津御用邸 - Wikipedia

 ネットでヒットしたのがここ。1893年明治26年大正天皇(当時皇太子)の静養先として造営された。1945年7月の沼津大空襲で全焼し、西付属邸、東付属邸のみが残ったという。御用邸としては1969年に廃止され、都市公園として一般公開されるようになったのだという。

 御用邸の敷地=公園は海岸線に沿って細長く伸びている。駐車場は6ヶ所あるが、土曜日とはいえ午前中だったので本邸正面から入って右側のご来園口の前の駐車場も空いていた。ここには身障者用スペースが2台分ある。ご来園口横のトイレは古びた建物だったけど、中はキレイできちんとシャワートイレも設置してあった。

 

 そしてまず西付属邸を右に見て海の方に進む。そこから本邸があった区間、歴史民俗資料館のある側に行くには二つの連絡橋を渡る必要がある。車椅子だと多分一度ご来園口まで戻って正門に行く必要があるので今回はそっち側、さらに東付属邸の方に行くのは断念。

 

 

 

 西付属邸に入るにはご来園口右側にある売店で入館料を払う。邸内は靴を脱いで上がる。車椅子は入口脇に置いておく。妻はとりあえず靴を脱いで装具の状態で杖と自分が手を引いて中を歩くことにした。
 西付属邸内は細長くて、数回の増築を経たせいもあり、部屋数26室の木造平屋建。宮廷建築というものらしいが、細長い廊下をぐるぐると回りながら各室を見て歩くのがけっこう面白い。

 

 

 

 

 さざれ石

 君が代で歌われるあの「さざれ石」である。こんな形なのかと思ったり。ウィキペディアによれば、さざれ石は小石のことであるという。岐阜県に産出する石灰質角礫岩を君が代の「さざれ石」だとは、これは岐阜県がある意味勝手に言っているということらしいので、まあそういうものだと思いながら、とりあえず恭しく「さざれ石ね~」と呟きつつ見るのが望ましい態度かもしれない。

さざれ石 - Wikipedia

 

 

 謁見室

 文字通り、天皇や皇太子が来客と謁見する場所ということ。椅子とテーブルで下はカーペットひいてあるけど、その下は完全に畳。和洋折衷ということですね。

 

 

 この畳の続き部屋はご寝所スペースだったよう。

撞球

 ここは完全に洋間。皇太子やご学友たちがビリアードに興じたのだろう。なかなかお洒落な空間だ。そしてビリアード台の脚はというと、どこかロココチックな雰囲気がある。

 

 この写真はというと昭和天皇秩父宮(たしか)の赤ちゃんのときの写真。さてと現人神から人間宣言された昭和天皇はどっちだったっけ。

 

 ちょうどまもなく端午の節句が近いということで五月人形が飾ってあった。

 

 

 

 髭だるまがどことなくユーモラスだった。

びゅうお

 

 沼津港に設けられた大型展望施設が敷設された水門である。もともと東海地震津波対策の一環として2004年に建造されたものだとか。

沼津港水門展望施設びゅうお

びゅうお - Wikipedia

 水門扉は重量406トン、幅40m、高さ9.3mで、震度5強以上の地震を検知すると約5分で閉鎖されるのだとか。そして展望台は地上から約30m、両岸の間を長さ約30mの連絡橋で繋いでいる。「びゅうお」の名称は、「VIEW」と魚の「うお」と合わせたものだという。・・・・・・微妙だ。

 津波対策ということで、水門閉じて沼津港や沼津魚市場を守るということらしいのだけど、周囲や狩野川を遡行してきた津波で結局水没しちゃうのではないかと、まあ素人素人考えで思ったりもしたが、まああくまで素人の感想なのでそれはそれとして。

 

 まず駐車場はびゅうおの手前の港口公園の脇に、びゅうおと公園それぞれの駐車場がある。ひょっとしてと思いびゅうおの近くまで車を進めると、施設入口の脇に身障者用の駐車スペースが2台分あったので止めさせてもらう。

 入口からエレベータに乗ると2階部分が展望スペース。そこからの眺めと連絡橋からの眺めはなかなか壮観。これは一度は来る価値あるなとは思う。天気は曇りでややかすんでいたけど富士山もしっかり見ることができた。

 

 

 

 滞在時間は30分くらいだったけど、まあまあ楽しめた。沼津市民はけっこう来るのではないかとか、高校生の初デートとかにもいいのかもと思ったりもした。夜は8時まで営業していてライトアップもされるとも。

 次があるかどうか判らないけれど、沼津に来たらちょっと寄りたい観光スポットだとは思った。

 展望台を降りて水路沿いを歩いていると、ちょうど沼津港から観光汽船が出向するところだった。多分、乗客がえさやりするためか、カモメやトンビが汽船の周囲を飛び回っていた。

 

 

 

 

三嶋大社

 次に向かったのは三島。三嶋大社は伊豆でも格式の高い神社らしい。と、ここは旅行前になんとなく調べて行ってみようかと思っていたところ。何度も伊豆を訪れているので、一回くらい行ってみてもいいかと、そのくらい漠然とした感じ。なんでも源頼朝が源氏再興を祈願したと伝えられているとか。

三嶋大社について | 三嶋大社

三嶋大社 - Wikipedia

 土曜日でけっこうな賑わいを見せていて、駐車場も満車状態だったが1分と待たずに入ることができた。駐車場からいったん道路に出て大鳥居をくぐろうとしたのだけど、鳥居の先にはちょっとした階段がある。なのでもう一度駐車場に戻って駐車場脇から入る。なので参道側が見た大鳥居。

 

 そして参道。

 

 参道の左側には神池(しんち)があり赤い橋の向こうには小さな神社がある。厳島神社というのだが、なにやらミニチュア版っぽい。

 

 

 そして狛犬には慣れ切ったハトたちがご休憩中。

 

 そして総門をくぐる。

 

 次にあるのが舞殿。

 

 そして御本殿。

 

 

 

 創建は不詳だが、徳川家光の時代に大規模な社殿が整えられたが、1854年嘉永7年)の安政東海地震で被害を受け、1866年(慶応2年)から1868年(明治元年)にかけて現在の形で再建されたという。だいたい地区160年くらい経っているというところ。

 舞殿の右側には樹齢1200年の古木で天然記念物に指定されているキンモクセイがある。

 

 さらに宝物殿の奥には神鹿苑があり、40頭ほどの鹿がいる。この鹿は奈良春日大社からつがいもらい、そこから繁殖したのだとか。エサ槍は自由で大社のよりどころという土産物屋でしかせんべいも売っている。

 

 

 網越しにしかせんべいをやると寄ってきて食べる、食べる。ちょうどエサやりの時間帯になり、係の人が野菜クズなどを放って、それにみんな群がるのだが、横でしかせんべいを差し出すと、野菜よりせんべいという鹿が何頭もやってくる。野菜よりスナック好きとみた。

 ネットにはこんな掲示も張ってある。しかし生ごみなんか持ってくる輩がいるんだろうか。

 

 園内に猫を捨てるというのもなんとなくありがちだとは思ったが、わざわざ鶏を捨てに来る人なんているのかとちょっと思ったりもした。と、神鹿苑の端っこに1羽うずくまる鶏がいた。捨てられていついた鶏なのだろうか。

佐野美術館

 

 その後はその日の最終目的地の佐野美術館。ここでは堀文子の回顧展がその日から開催されていた。その感想は別に書くつもりだけど、佐野美術館は街中、それもなんとなく住宅街の中にこじんまりと佇んでいる。以前訪れた長久手市の名都美術館とちょっと雰囲気が似ている。

佐野美術館 Sano Art Museum

佐野美術館 - Wikipedia

 ここは三島市出身の実業家佐野隆一の寄付にによって建てられた私設美術館。日本刀や刀装具、陶磁器などのコレクションが充実している。

 美術館の裏には回遊式の庭園があり、国の登録有形文化財に指定された日本家屋「隆泉苑」がある。さらにその隣には和食レストラン松韻が併設されている。

崔如琢美術館 (4月19日)

 

崔如琢美術館|現代中国水墨画家 崔如琢(さいじょたく)の作品収蔵

 伊東から伊豆高原のあたりを国道135号で走っていると、左手にけっこう壮大な建物が見える。崔如琢美術館という大きな看板もあり、以前から気になっていた。しかし崔如琢ってなんだ。

 美術館のホームページにはこうある。

崔如琢氏は、中国で最も著名で、人気、実力ともに最高峰の現代中国水墨画家の一人です。

 その他のサイトをいくつか見てみると。

 1944年~。

北京市西城区出身の画家。

北京芸術学院付属高等学校に入学。
中央美術学院付属高等学校に転校。優れた絵の才能を発揮し、中国画の科目代表となる。高校卒業後、北京市内の小学校で美術教師を務める。その間に書道、絵画などを学ぶ。
人民大会堂に巨大画を納める。美術界から注目を浴びるようになり、中央工芸美術学院で教師を務める。アメリカに移住。ニューヨーク・リンカーン芸術センターにて公演を行う。
国際美術展覧会「ビンナーレ」に参加し、中国の画家として唯一入選する。
台湾歴史博物館にて個展を開催。これは中国画界では初のことで、当時の台湾副総統・謝東閔氏によりテープカットされる。
世界華人書画家/収蔵家連合会名誉会長に就任。中国にて崔如琢書画コレクション切手が発行される。
また花鳥画山水画として初の国産ワイン標章となる。
中国全土で「崔如琢書画個展」を開催。この個展により崔如琢の魅力を一層全国に広めることとなる。

<本郷美術骨董館>

https://www.hongou.jp/artist/saizyotaku/

 

崔如琢(Cui Ruzhou)  (1944年~)

Cui Ruzhou is a contemporary Chinese ink painter. Employing traditional imagery and techniques, Cui’s compositions of Chinese mountain landscapes are rendered through the method of historical Literati painting. He applies several thin layers of ink wash to paper, which is then further defined by darker lines to create complex, meditative works. Born in 1944 in Beijing, China, Cui studied under Li Kuchan, a prolific painter and calligrapher, and taught at the Academy of Arts and Design in Beijing before moving to the United States in 1981. Upon his return to China in 1996, his works began to be politically celebrated, and he began working as a mentor to doctoral students at the Chinese National Academy of Art. Cui has come to the attention of an international audience through his record-setting works at auction. In 2011, his painting Lotus achieved more than $15 million at a Christie’s auction in Hong Kong. In 2015, Landscape in Snow was purchased for over $30 million at Poly Auction Hong Kong, which made Cui the most expensive living Chinese artist at auction, knocking Zeng Fanzhi out of the top spot.

崔如琢は現代中国の水墨画家です。伝統的なイメージと技術を使用し、崔の中国の山の風景の構図は、歴史的な文人絵画の手法を通じて表現されています。彼は紙にインクウォッシュの薄い層を何層も塗り、さらに濃い色の線で輪郭を描き、複雑で瞑想的な作品を生み出します。 1944年に中国の北京で生まれた崔氏は、多作な画家であり書道家のリー・クチャン氏に師事し、北京の芸術デザイン院で教鞭を執った後、1981年に米国に移住した。1996年に中国に帰国すると、彼の作品は政治的に評価されるようになり、中国芸術学院で博士課程の学生の指導者として働き始めた。キュイは、オークションでの記録的な作品を通じて、世界中の注目を集めるようになりました。 2011 年、香港のクリスティーズ オークションで彼の絵画「ロータス」が1,500 万ドル以上で落札されました。 2015年、『雪の風景』は香港のポリオークションで3,000万ドル以上で落札され、崔はオークションで最も高額な存命の中国人アーティストとなり、曾範志をトップの座から追い出した。

<artnet>

https://www.artnet.com/artists/cui-ruzhuo-2/

 ようは現代中国を代表する山水画家ということらしい。もっとも80年代にアメリカに移住してアメリカ国籍を得ている中国系アメリカ人画家ということになる。といっても彼のマーケットは間違いなく東アジア中心のようだ。

 なぜ現代中国の作家の個人美術館が伊豆にあるのか。これがよくわからない。ググってもよくわからないが、周辺情報を探るとどうも手かざしの真光系という宗教団体が運営しているらしい。伊豆に本部のある世界真光文明教団らしいということ。

 しかしこの真光系の新興宗教というのも実はよくわからない。岐阜高山に本部のある崇光真光も巨大な光ミュージアムを運営している。巨大な建物の中にピラミッドホールはあるわ、屋外にはメキシコ風のピラミッドはあるわという巨大施設。肉筆浮世絵をたくさん持っているということで一度行ったことがあるが、その時はエジプト展と魯山人展をやっていて、収蔵品は一室で少しだけ展示してあるだけだった。

 とりあえず巨大な建物に圧倒されつつも、宗教って儲かるんだなと思ったりもした。この崇教真光から別れたのがこの伊豆に本部のある世界真光文明教団なんだとか。さらにいえば以前、圏央道を筑波方面に走っているときにやはり巨大な寺院を目撃。あとで調べたところ陽光子友乃会という宗教団体だという。ここは世界真光文明教団から分派したのだとか。

 そういえば伊豆の著名な美術館といえばMOA美術館があるが、あそこも確か宗教がらみ。岡田茂吉がひらいた世界救世教が母体となっている。MOAはというと、どうも「Mokichi Okada Association」の略称のようだ。この世界救世教もたしか手かざしだったような記憶がある。

 どうでもいい話だが、むかし上司が行きつけにしていた飲み屋のマスターがそっち系だったのか、よく上司が手かざしを受けていた。なんか手かざしされるとポカポカしてくるとか言ってたな。「お前もやってもらえ」と言われたけど、丁重にお断りした。マスターも、ひょっとしたら上司もそっち方面だったのだろうか。

 かなり話がややこしくなってきたので、整理するためにリンクを貼っておく。

世界真光文明教団 - Wikipedia

崇教真光 - Wikipedia

陽光子友乃会 - Wikipedia

世界救世教 - Wikipedia

 

 大きく脱線したけど、崔如琢である。館内は広く、建物の中央は吹き抜けになっていて1階、2階ともに中央を回遊するようにして展示室が設けられている。そこに墨画による山水画が多数展示してある。単色と彩色がほどこされたものが半々くらい。大型の作品も多い。

 技術的に素晴らしいものがあるし、正直これは期待以上の作品群だ。現代的な要素取り込み、没骨法、米点、さらには筆ではなく手を使った表現など、様々なテクニックが駆使されている。これはあなどれないなと思った。

 全体としてなんとなく南画風な感じも多い。そして細い線一つで、船のマストや魯を描く。よく見ると微妙な肥痩がある。これはもう見事としかいいようがない。ここまでの技術はちょっと日本の画家にはないかもしれないなと思ったりもしないでもない。

 様々な意見があるからなんともいえないけど、例えば横山大観の《瀟湘八景》あたりと並べたら、大観かすむかもしれないなと思ったり。同じことを以前、トーハクの東洋館で観た斉白石展でも思ったりもした。まあ山水画にしろこと水墨画についていえば、中国は本家ということになるのだろう。もっとも岩絵の具を使った色彩画は日本の方が発達した部分もあるのかもしれないが、中国にも岩彩画というジャンルもあるらしい。まあこのへんは知識も情報もないので、なんともいえないけど。

 

 飛雪降る春 飛雪伴春 壬辰之秋 2012

 崔如琢は来日して富士の絵を数点描いている。その1枚なのだが、なんとなく雰囲気が違う。キャプションには、日本の画家は富士を全面に描くが、崔如琢は富士を風景の中の一つとして捉えているみたいなことがあったような。いわれてみればそうなのかもしれない。でも自分が感じるのはなんていうのだろう、富士山に対する日本人の心性みたいなものだ。

 日本人が富士山を見るとき抱くのは、どこかで霊峰富士みたいな部分、あるいは日本人の心のよりどころとなる象徴的な原風景みたいな部分、そういう心的な付加価値みたいなものを通しているような気がする。いわば「富士的なもの」バイアスがかかった目で見ている。

 この絵には実はそれがないような気がする。ただちょっと形が変わった山が遠景に描かれているというような感じだ。けっしてこの絵が変でもないし、きちんと富士が描かれた風景画なのだが。

 同じことはちょっと喩えが違うかもしれないけれど、セザンヌの描くサント=ヴィクトワールには、セザンヌのこの山に対する思いが込められている。でも日本でそれを観る我々には単なる山の連作でしかないみたいな。そして多分、日本の画家があの山を描くとすれば、ただの山か、あるいはセザンヌ風のサント=ヴィクトワール山みたいな。

 風景に込める意味性、心的な部分、それは我々が日頃感じる原風景と重なっているかもしれないと。まあちょっとこのへんは適当な思いつきだが、少なくとも崔如琢の富士は我々が日頃接する富士とは異なるような、そんな趣があるように感じた。

江南の雨と桃花 杏花春雨江南 壬辰 2012 

 崔如琢美術館、ウィークデイとはいえほとんど見学客がいなかった。これだけ大きな施設だけにいくら宗教が関わっているかもしれないけれど(?)、ちょっと大丈夫かなと思ったりもした。そしてここは何度も訪れたい場所でもあるとは思った。

 伊豆での本格的な美術館といえば、MOA美術館、上原美術館、池田20世紀美術館などがあり、年に何度か行く伊豆旅行のたびに順繰りで訪れている。ここに箱根のポーラ美術館や成川美術館湯河原町立美術館なども入っている。この崔如琢美術館もその一つに加える加えたいとは思っている。

 ちなみにこの巨大な建物、なんでも築30年くらいは経っているのだとか。もともとは伊豆高原美術館という名称だったというが、ネットで調べてもどういうものが展示されていたのかもよくわからない。その後はというと21世紀に入ってからは「兵馬俑博物館HAO伊豆高原」という兵馬俑を展示するミュージアムだったらしい。そして崔如琢美術館となったのは2013年からとのこと。観光地の美術館、博物館の変遷というのもなかなか興味深いものがある。

伊豆旅行に行ってきた② 伊東から城ケ崎周辺 (4月19日)

旅行二日目。

 

門脇吊橋

 まずは近場で吊橋巡り。妻は身体不自由なのに、けっこう吊橋を渡るのが好き。関東近県の主だった吊橋はけっこう行っている。本人曰く手すりを伝っていけるので楽なのだそうだ。自分は高いところは正直ダメな方なのだが、妻はそういうことがない。妻が元気な頃、遊園地のジェットコースター類も妻はけっこう好きでよく誘われた。自分は5回に1度くらいいやいや付き合わされて、そのたびに「俺が悪かった~」と絶叫していた。

 門脇吊橋は城ケ崎海岸の中にある、長さ48メートル、高さ23メートルの海にかかる吊橋。ここに来るのは3年ぶりのこと。ここは駐車場から吊橋までは短い距離で車椅子を押して行くことができる。多分、車椅子で吊橋の中の移動もできないことはないのだけど、一応吊橋のたもとに車椅子を置いて後は歩いていくことになる。吊橋からの景色はなかなかの絶景。さすがに下を見るとクラクラくるので、出来るだけ見ないようにする。

 

 吊橋から遠くの海に突き出た岩というか断崖の景色もなかなか見応えがある。断崖に穴が開いているわけではないけれど、なんとなくノルマンディー地方のエトルタの奇岩みたいな趣がないでもない。モネやクールベだったら1枚やそこら絵を描いているかもしれない。

 

 城ケ崎にはもう一つ橋立吊橋というのがある。こっちはかなりマイナーなところで、駐車場から川沿いの遊歩道をかなり歩く。その遊歩道が突き当たったら、山の中をしばし歩かないと吊橋には着かない。一度、ネットで調べて行ってみたが、これはもう二度といくまいと思うくらいに難易度が高かった。

崔如琢美術館

崔如琢美術館について|崔如琢美術館

 ここは以前から気になっていた美術館。前日調べると、現代中国の山水画家崔如琢の個人美術館なのだとか。ちょっと興味深いものがあるので、城ケ崎から少し戻って行ってみることにした。この美術館については別に書くことにする。

 そしてこの美術館は、2階にレストラン天城というイタリアンのお店が入っている。美術館に入らずレストランだけの利用も可能だという。山水画を観ておなかいっぱいではあったが、色気と食い気は別である。物珍しさもあって入ってみた。妻も自分も選んだメニューは違うがパスタ。単品で900円~1100円くらいで、サラダ、ドリンク、デザートをつけるとだいたい1600~1800円くらい。伊豆という観光地価格からすれば、まあまあ良心的かもしれない。

 そのうちこの美術館にも外国人観光客が押し寄せるなんてことがあれば、価格も改訂されるかもしれないか。

 

 

 このレストランは2階にあり、そこからの眺めもまた素晴らしかった。

 

 

象牙と石の彫刻美術館

 

伊豆高原 象牙と石の彫刻美術館 ジュエルピア – 象牙彫刻120点を中心に世界最大の宝石屏風や翡翠彫刻等、東洋美術工芸品を収蔵しております。まさに至宝たちの共演、日本の故宮と言われ必見に値します。 

 ここも前日ネットで調べたところ。崔如琢美術館の斜め前くらいのところにある。

 象牙や玉翡翠の彫刻というと、以前箱根の成川美術館で数点展示してあり、その見事さにうっとりしたのだが、どうもそれ専門の美術館として特に象牙彫刻作品の規模では、故宮博物院をしのぐともいわれているのだとか。

 そしてワシントン条約により象の狩猟、象牙の輸入が禁じられているだけに、多数の作品を観ることは、なかなか叶わないし、さらにいえば新たな作品が産み出されることも難しいという。

 そして展示してある作品がもう超絶技巧というかもう見事というしかない。

象牙彫刻>

 

 

 

 

 

 

 

 

<玉翡翠彫刻>

 

 

 

<採石象嵌屛風>

 

 もうほれぼれするような見事な作品ばかりである。

 ただし、同じような精密工芸を観続けていると、しだいに感覚がマヒしてくるというか、なんとなく食傷気味になる。見事は見事なのだが、これって結局工芸品なのである。心を揺さぶるような美的感動とはちょっと違うベクトル。いや工芸品が悪いとか、レベルが低いというのではないのだけど、やっぱりどこかで匠の技的なもの、職人芸の粋みたいな風に思えてくる。

 たぶん見事なペルシャ絨毯をたくさん見たら、同じような気分になるかもしれない。蒔絵や螺鈿も実はそうだったりするかもしれない。技術の粋を集めた作品ばかりだし、あと100年もしたら希少性も含めて国宝級の工芸品ばかりなのだろうとは思うのだけど。

 さらにいうと一本の象牙から彫り上げていき、さらに細かい部分を別に掘って組み合わせる。けっこう多くの象牙が使われているのだろう。この象牙の工芸品のために、アフリカ象絶滅危惧種になったのかと思うと、さらに微妙な気分も感じ得ない。

 狩猟も輸出入も禁止された希少性からすると、密猟により象牙は多分ブラックマーケットで高値で取引されていたりもするのだろう。出来れば美しい工芸品を観ながらそんなことを想像したくないのだが、どうしてもどこかで考えてしまう。なんとも微妙だ。

 展示された作品には多分罪はないし、それぞれがもう信じられないくらいに素晴らしい工芸作品ではある。

 一度は観たい、行きたい美術館ではあると思う。でも何度も行きたくなるかというと微妙ではる。でも例えばトーハクあたりで故宮博物院象牙彫刻や玉翡翠彫刻の作品展でも開かれれば、多分長蛇の列ができるかもしれない。それを思うとこの美術館の価値はけっこう高いものがあるかもしれない。

小室山公園つつじ園

小室山公園つつじ観賞会|伊豆・伊東観光ガイド - 伊東の観光・旅行情報サイト

(閲覧:2024年4月22日)

 最後に訪れたのが小室山つつじ園。以前、リフトに乗って頂上にあるというリッジウォークに行ってみようかと思ったのだが、まず駐車場からリフト乗り場まで行くのがけっこうたいへん(リフト乗り場のすぐそばにも駐車場があることには後で気がついた)。リフトに乗ってもけっこう頂上付近での歩行が大変とか、係の人に言われて断念した記憶がある。

 今回はこれもネットで調べたところ小室山公園のつつじが4月下旬から5月上旬にかけて見頃という。HPで現在はというと「咲き始め」と案内でていた。まあ伊東から伊豆高原周辺を観光していて、とりあえず小1時間くらいしたら宿にも戻るつもりだったので、行ってみることにした。ちなみに今週になってからは「見頃前」という案内に変わっている。

 駐車場は無料で、遅い時間だったからかなり空いていたけれど、これから「見頃」を迎える頃にはおそらく有料になるだろうし、けっこう混雑するのでは。

 そして咲き始めというつつじはというと、これがまあまあいい感じで咲いている。これで「咲き始め」なら、「見頃」の頃はどんなだろうか。

 

 

 

 つつじ園はけっこう起伏があったけれど、なんとか車椅子押して回ることができた。まあこのくらい咲いていれば十分かもしれないなと思ったりもした。何年か前に那須の八幡つつじ群落を見たことがあるけれど、あやふやな記憶だけど同じような感じじゃないかと思ったりもした。ひょっとしたらあの時も咲き始めだったのだろうか。

 

伊豆旅行に行ってきた① 大瀬崎・韮山 (4月18日)

 先週の木曜から二泊三日でまた伊豆旅行に行ってきた。3月にも行っているので、ジャスト一か月ぶり。例によって健保の宿が取れた故。

 だいたい行くところがワンパターンになっているので、今回は出来るだけ行ったことがないところを回ろうと思った。といっても、例によってノープランで、だいたいが前日になんとなくこの辺行くかみたいな感じでもあったけど。

 

 初日、家を出たのは朝9時過ぎ。旅行だから早く出ようという気もない。伊豆はまあまあ近場だということもある。

 最近の圏央道は、特にウィークデイが混んでいたりする。特に鶴ヶ島から入間あたりと、八王子ICあたり。常磐、東北、関越、中央、東名という主要高速道路と接続している物流道路なので、トラックの交通量が半端ない。この日はわりとスムーズに流れていて、中央との分岐のところと海老名ICのところで少しだけ渋滞があっただけ。

 今回は海老名ICを通り過ぎて、初めて新東名を使ってみる。この区間伊勢原の少し先で東名に合流する。その後は順調に御殿場から新東名、さらに伊豆縦貫道へと走る。

 函南塚本ICで降りて休憩のため、めんたいパークへ。ここには以前一度来たことがある。かねふくが運営しているドライブ・イン。ここで「鬼盛めんたい丼」でも食べようかと思ったけど、妻も自分もさほど腹減ってなかったので、おにぎりと豚まんを買って出発。

 一応記念に1枚。

 

 

大瀬崎

大瀬崎|見る・遊ぶ|沼津市公式観光サイト【沼津観光ポータル】

 そして最初の観光はというと、以前テレビの『バスサンド』でやっていた大瀬崎に行くことにする。ここは駿河湾に突き出た小さな岬。そこには海から数メートルしか離れていないのに、淡水の池がある。

 

 遠くから見るとこんな感じで、ちょっと天橋立みたいって一瞬思ったりした。

 

 岬の手前にある駐車場に車を止めてからは海沿いの細い遊歩道を車椅子を押して歩く。遊歩道は狭く、すぐ脇は海で、波もかかりそうな感じ。途中から自然群生しているビャクシンの樹林の中を行くことになるのだが、これがなかなかの景観。それから大瀬崎神社を通り、淡水の池神池。池の中をのぞくと、たしかに鯉が沢山泳いでいる。淡水だ。

神社、本殿は階段を上ったところの模様 

 神池

 さらにその先を少し上ると、それまでの舗装された遊歩道(けっこうガタガタ)から、急に大きな石を敷き詰めた道に出る。ここはちょっと車椅子では行けないので、その先がどうなってくるのか一人で見に行くことにする。

 石を敷き詰めた小径はすぐに終わってまた舗装された遊歩道になる。そして岬の先端部分にはビャクシンのご神木がある。テレビでは霊感スポットみたいに紹介されていたけど、さほどそういう雰囲気もない。ただ樹齢がどのくらいかわからないけど御神木はまあまあ見事。

 ご神木

 その先にもビャクシンの巨木がいくつもある。

 

 さてと、ここへどうやって妻を連れてこようかと思案。まず石を敷き詰めた小径は手をひいて歩き、それから車椅子をかついで持ってきてみたいにするかなどと考えながら戻ろうとすると、妻から電話がある。なんでも少し尿意があるので戻りたいという。

 アチャーという感じ。そうなるとトイレは駐車場に戻るまではなさそう。神社にはあるのかもしれないが、誰もいない様子。ウィークデイはこんなものなのだろうか。

 途中、海岸沿いにはダイバー用の店舗みたいなものがあるにはあるが、そこでトイレを借りるのもなんだし。ということで、速足で駐車場まで戻ることに。

 駐車場のトイレも駐車場からは少し離れたというか、少し上ったところにある。トイレには一応多目的トイレもある。それだけで有難いというところか。

 用を足してからまた岬の先端に行くのは時間的にけっこうロスだし、次行く予定もあるので、大瀬崎観光は終了。妻はちょっと残念そうでもあったけど。まあせっかくの観光地なので、岬の奥にもきちんとトイレ設備があってもいいかもしれないなとはちょっと思った。

江川邸

重要文化財 江川邸

 江川邸は幕府の代官を長く続けた江川家の住居。もともと江川家は晴和源氏の流れをくみ、平安時代末期、保元の乱をきっかけに1160年に宇野家7代宇野親信が13人の従者と伊豆韮山に移り住み建造されたのが始まりとされている。

 宇野家は鎌倉時代室町時代に伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀中ごろに江川家として改姓し、江戸時代には世襲代官としてこの地の他、今でいえば神奈川、山梨の一部、埼玉の一部なども管轄統治した。

 歴代当主の中では幕末期に活躍した36代江川英龍(坦庵)が有名だ。英龍は開明的人物で、渡辺崋山高野長英らと尚子会を通じて親交をもち、蘭学を修め、外国の社会事情や国際情勢に通じた。幕府には沿岸防備を建議し、身近からも近代的な兵制や農民兵なども採用。さらに鉄砲鋳造のために反射炉を建設した(没後完成)。またペリー来航の際には、幕府より湾岸防備のため砲台築造を命じられ、わずか次の来航までの7ヶ月の間にお台場を完成させたことなどでも知られる。

 また兵糧としてパンを最初に製造したことでも知られ、パン祖ともいわれている。英龍はまた革新的技術者、開明思想家、そして文化人でもあり、書画、詩作、工芸品なども残されている。

江川英龍 - Wikipedia

 今回も展示資料の中には江川坦庵直筆の絵も展示してあった。南画・文人画のスタイルである。坦庵は谷文晁に師事したとも伝えられている。文晁が江川邸を訪れ、直接絵を教えたという話も伝わっているがどうもそれは定かではないようだ。また谷文晁の門下にあった渡辺崋山とは、尚歯会を通じて親交があったが、崋山から絵を学んだかどうかもいくつかの説があるという。

 

 

 

 江川英龍についての知識というと自分の場合は概ね、みなもと太郎の長編歴史漫画『風雲児たち』から。最初に訪れたときもそのことを綴った記録が残っていた。

江川坦庵 - トムジィの日常雑記

 惜しむらくは、みなもと太郎は2021年に亡くなり、『風雲児たち』は60数巻で永遠に未完のまま潰えてしまった。

 

 現存する江川邸のほとんどは、1600年前後に修築されたものとされている。ここには二度ほど訪れている。今回訪れたのはつい最近受講した空間デザインの授業で、テキストの1章を割いてこの江川邸のことが解説されていたので、確認の意味もこめて見てみたいと思ったから。

 まず住宅に入ると広い土間があり、床は三和土となっていて、この民家の中心となっている。その土間の上部は大きな梁が架かり。さらにその上部には高さ12メートルあまりの屋根を支えるための小屋組みが幾重にも折り重なっている。この小屋組みには区議が一本も使われておらず、楔によって構成されている。重い屋根(当初は茅葺だったが、1958年に銅板葺きになっている)を出来るだけ軽い材料で支える工夫がなされている。さらに上部には排煙と明り採りが設けられ、空間の上昇性が生みだされている。

 こうした民家(古民家)には現代的なデザイン性は存在しない。貴族や大名の邸宅のようなデザイン性、装飾性は排され、生活のための工夫によって形成されている。それは例えば柳宗悦らが提唱した民芸に通じるものとしての<民家>ということなのだろう。

 テキストの解説をまとめるとこんなことだった。過去二度訪れたときには漫然と観光名所、文化財として見ていたものだが、改めてそういう指摘を確認したいということだった。

 

 

 

 

韮山反射炉

韮山反射炉 - Wikipedia

 江川邸の見学を終了したのが4時。近くなので韮山反射炉にも行ってみるかと思ったが、調べると4時半で終了という。どうしようかと思ったのだが、せっかくなので行ってみることにした。ここに来るのも三度目。

 着いたのが4時10分頃。ぎりぎりセーフで入場。いつもだとガイダンスセンターでの展示資料や映像なども見るのだけど、今回は素通りしてとにもかくにも反射炉を見に行くことにする。

 ここは最初に来た時はあまり整備されていなかったのだが、やはり世界遺産明治日本の産業革命遺産)に登録されてからは、ガイダンスセンター、駐車場、周囲の遊歩道なども整備されている。

 行ったときには、自分らよりも前に数名の年配観光客が入ったばかり。自分らも合わせても10名に満たない。ウィークデイの閉館まぎわなのだから当たり前か。2年前に訪れたときはちょうど桜が満開の時だったが、さすがに周囲は緑の葉っぱばかりだった。

 反射炉と大砲、遊歩道沿いの小川。

 

 

 そもそも反射炉ってなんだ。たぶんガイドとか、ガイダンスセンターで映画とかを見ているはずなのだけど、今ひとつよくわかっていない。おさらいの意味でガイドの説明を引用する。

なぜ「反射炉」と呼ばれるのか

 反射炉は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と、煉瓦積みの高い煙突からなる。

 石炭などを燃料として発生させた熱や炎を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銑鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現する。このような、熱や炎を反射する仕組みから、反射炉と呼ばれたのである。

 

 

昔、こんなに勉強しただろうか

 通信教育の大学生になって3年目に突入した。

 一応、学士入学というのだろうか、4年間ではなく2年間で卒業できるはずだったのだが、2年なんてとてもとても、という状態にある。2年間で60単位が卒業要件なのだが、ただいま41単位である。今年1年で卒業できるかどうかも微妙な状況だ。やっぱり66歳からの勉強はあまりにも無理があったか。成績は一応だいたいAをキープして、ちょこちょこBがあるくらいだけど、もう右から左。単位とったとたんに総てを忘れているような感じ。

 それでも例えば一般教養の社会学などは、新しい学説とかに触れるとけっこう嬉しくなったりする。ブルーノ連関の社会学とANT(アクターネットワーク理論)とかネットワーク社会のパノプティコンとか、そういう考え方はなんていうか目から鱗みたいな感じもする。昨今の人文科学、社会科学は認識主体としての人間を崇高概念としていないみたいな感じをもったりする。多分、18世紀以降の啓蒙主義、近代理性主義には、前提条件としての認識主体=人間みたいな前提条件があった。でも20世紀後半以降はその前提としての人間優先が崩れているような。まあこれは単なる思いつき。

 

 通信教育を始めてからというもの、普通の読書、小説とかルポとかそういうのを読むことが極端に少なくなった。本、読んでいないかといえば、テキストの類はそれこそ毎日といえばウソになるけど、ひっきりなしに読んでいる。一冊3000円なにがしの170~200ページのテキスト類をもう何冊買っただろう。本棚1段くらいはあるけど、それにけっこう目を通している。

 そしてなによりもレポートの類がたくさんある。ビデオ授業は、ビデオ視聴後に1200~2000字くらいのレポートを提出する。テキストだけをもとにした授業はというと、まずレポートとして1問800~1200字のものを3問くらい。それに受かると試験として1200字くらいの論述試験を1時間で仕上げる。ネットで繋げて「さあ、これから試験ですよ」となるとそこからきっちり1時間で仕上げなくてはならない。

 こういうの年寄りにはシンドイ。シクシク。それを思うと、わざわざ金払って、しかも年金生活者にとってはけっして安くない授業料を払って、なんでこんな苦行をしているんだということになる。仕事を辞めてから、急にマゾヒスティックになったのだろうか、体質が。

 

 そしてつくずく思うのだが、昔々のこと、かれこれ50年近く前の大学生の頃を思い出してみる。

「俺って、昔、こんなに勉強しただろうか」

 かって自分がいた大学は、まあ程度はあまりよろしくないうえに、まだまだ学校が荒れていたこともあり、試験がつぶれてレポートになることもけっこうあった。当時、レポートが多いといっても、今ほどの字数書いていなかったような気がする。

 そもそも昔は年間通しての一コマの授業で4単位、4年間で120単位くらい取れば卒業できたのではなかったかと思う(定かではない)。そして自分は多分、3年間でほとんどの単位を修得して、4年生のときはほとんど遊びのような一般教養科目や、単位習得なしで授業でたりしていた。3年で単位のほとんどが取れるというのは、けっして自分のレベルが高いということでもなんでもなく、ようはそういう大学だったというだけのことだ。

 

 今、受講している通信制の大学はというと、年間4学期制で1科目を三ヶ月で受講し試験を受ける。合格すると2単位を得ることができる。これってタイト過ぎないかと思ったのだが、友人に聞いてみると今の大学はけっこうそういうところが多いのだとか。

 う~む、今の大学生って大変なんだな。

 これも友人と話したこと。

「なんか、ずいぶんレポートとか論述試験多いみたいだな」

「そうなんだ、毎回1200~2000字とかある」

「よくそんなに文章かけるね」

「そう、正直きつい。会社ではけっこう報告書の類は短時間で書いたりしてたけど、それと学習系は全然違うしね」

「というか、そもそも自分ら昔大学生の時に、こんなに勉強してただろうか」

「うん、自分もそれちょっと考えてた。確実にしてないな。昔の大学の授業はもっとルーズだったし、試験やレポートも楽勝だったような気がする」

 

 思い起こせば、ほとんど一回も授業出ることなく債券総論は「優」をもらった記憶がある。なんなら一般教養で近代文学かなにかで、書くことがなくて、答案用紙の裏にカレーの作り方を書いたことがあったような。それでも「不可」ではなく「可」だった。でもその授業で北村透谷や島崎藤村の苦悩や煩悩について学んだような記憶がある。漱石や鴎外のメインストリームからすると、今風にいえばB面の文学史みたいな感じだったか。

 しかし、かって自分らの拙いレポートを読まされた先生たちには、なんとなく同情というかお詫びしたい部分もあるな。多分、多分だけど相当に拙いヘタレな作文ばかりだったような気もする。

 

 そしてさらに思う。最近の大学生は多分、かっての自分たちよりもはるかに学習している、あるいは学習させられているのだなと思ったりもする。これは凄いことだ。でもエライとは思わない。なんなら50年前の大学生だった自分らは、勉強こそしなかったけど、もっと社会に対する問題意識をもっていたし、変革志向みたいな部分もあったように思う。テキスト以外の教養書、専門書だって読んでいた。

 そして卒業してからも、読書の幅はもっと広がったようにも思う。自分の場合だけど、哲学書思想書を一番読んだのは大学を卒業してから30になるくらいだったような気もしている。書店や出版社に勤めていたからか、そういうものに触れる機会も多かったし。ただし、いわゆるお勉強はずっとずっとできない部類だったかもしれない。

 今の大学生が優秀かどうか。身近では数年前まで自分の子どもがそうだったが、けっこう学習でアドバイスもしたので、うちの子はさほど優秀ではなかったのだろう。この親にしてこの子みたいな。

 あまり若い人と接することなく人生送ってきた。自分が人生の後半にいた会社、それまであまり高学歴の子は採用しなかった(そもそも応募してこない)。でも、ある時期から就職難、不況のせいもあり、募集するとそこそこの学歴の子が応募してくるようになった。ちょうど自分が経営の立場にたった頃だったか、新卒、第二新卒などで大卒をメインにとるようにした。

「こんな子、うちの仕事にはあいませんよ」

 そういう否定的な意見も多かったが押し切った。

 2年続けて国立大出の子が応募してきたので採用したが、やっぱり仕事の覚えいいし、頭の回転も早かった。でもだいたい仕事以外のコミュニケーションを取るのは難しかった。ゲームのことなどこちらはまったく判らないし。ある時、「ダフトパンク聴いたことあるか」と質問して、「いやありません、なんですか」と返された時には、もう若い子とコミュニケーション取るのはやめようと思った。『ランダム・アクセス・メモリーズ』が大ヒットした頃だっただろうか。

 

 話はいつものように脱線した。

 とにかく3年目の老いぼれ大学生である。学習の日々はヒーヒーの連続だ。そしておそらくこれまでの人生でいえば、二番目くらいに勉強をしているかもしれない。一番は多分、浪人して受験勉強していた頃か。あの時はまだ未来に希望があった。大学に入ればいろんなことが待っているはずだ。鬱屈した中でもそれがあった。

 今はというと、そもそも未来がないのだから、トホホでもある。まあそうはいっても今まで知らなかったこと、忘れたこと、中途半端にかじったことなどに新たに接することは、まあ喜びといえ喜びかもしれない。

 それにしても昔の大学生は、こと自分に限っていえば、今ほど勉強はしてなかった。

4月の日誌的②

4月12日(金)

 8時過ぎに起床。階下に降りて妻のインシュリン注射。燃えるゴミを捨てに行き、妻のデイの準備を手伝い8時45分に見送る。金曜日のデイの送迎はいつもより30分以上早い。

 なんとなくノートパソコンを1台立ち上げると例によってWindowsのアップデートが始まる。けっこう大きなアップデートみたいでけっこう時間がかかる。ついでなので同じ機種でもう1台あるので、そっちも立ち上げてアップデートを開始。いずれもcore i5 の第8世代のX280でなんとなく家用と外出用みたいに区分けしているけど、あんまり使わない。

 最近は図書館やマックで学習することもあまりない。家にいてグダグダしていることが圧倒的に多い。ひきこもり老人ってやつだろうか。

4月13日(土)

 朝9時頃起床。自室でグダグダしてたので、階下に降りたのは11字頃。珍しく何も食べるものがなかったので、以前スーパーで買ったラトビア産の安いオートミールに卵スープを入れて食べる。まあ普通に食べることができるけど、あまり美味くない。オートミールはなんか動物の飼料みたいな感じがする。

 その後、妻のインシュリンをうつのを忘れていたので慌てて注射する。

 午後はとりあえず妻が一人で近所に散歩に行くというので車椅子を外に出しておく。自分はそれから掃除を始める。

 4時少し前に掃除終了。それから外で妻と待ち合わせて床屋に行く。いつも行く床屋は格安のところで、自分はシルバー料金で1800円。通常でも2000円くらい。そういえば、今、普通の床屋の料金っていくらくらいなんだろう。かれこれ普通の床屋には20年くらい行っていないかもしれない。その頃でも3000円以上したから、今は4000円以上するのだろうか。

 床屋は左側が男性用の理容室、右側が美容室になっている。自分は二か月ぶりの散髪、妻はスタンプを見ると去年の8月以来だ。

 しかし今は二か月も床屋に行かないと、もう鬱陶しくて仕方がない。なんていうか髪は短いのが一番みたいになっている。大学生の頃、それこそ背中くらいまで髪の毛を伸ばしていたのが信じられないくらいだ。

♪♪髪の毛が長いと、許されないなら♪♪

 とても無理だと思う。まあ年取ったら清潔感が一番かもしれないな。

 その後はダイソー行ったり(小物をいくつか買う)、ユニクロへ行ったり(見るだけ)。そして夕食は近所の日高屋で。ワンパターンのおつまみ系、生ビール、固焼きそば、天津飯などなど。二人で4300円。そういうものだ。

4月14日(日)

 妻のインシュリンをうってから、朝昼兼用の食事を作る。多分、先週あたりに開けたスパム缶の残りを焼いて、目玉焼きを作って。あとはキュウリとトマトを細かく切って、さらにチーズを加えてコブサラダ風。ドレッシングはチョレギサラダ用のやつ。これが割と上手くいったみたいで美味しい。

 ちなみにコブサラダのコブは、ハリウッドのレストラン「ブラウンダービー」のオーナーであるロバート・H・コブが作ったサラダなんだとか。なんでも残り物を使ったメニューだったらしい。

 午後3時過ぎにお出かけ。妻のリクエストで浅羽のビオトープ高麗川遊歩道を散歩。暖かくて初夏を思わせる。車椅子を押して歩いていても少し汗ばんでくるくらい。

 遊歩道の両側の菜の花もやや盛りを過ぎた感じ。アプリで調べると、どうも菜の花ではなくノハラガラシという外来種らしい。菜の花モドキといったところ。

 対岸の土手脇の桜もまだギリで観ることができる。多分、来週は葉桜になっているかもしれない。

 その後はいつものように買い物。

 夕食は出来あいのトンテキとネギを炒め、最後に残り物のキムチを加えてキムチ炒め。これがけっこう美味い。あとは見切り品で安く売っていた生でも食べることができるというサラダナスをワサビ漬けの素であえる。これも美味しくて、妻が気に入ったみたいで三分の二以上とられた。

4月15日(月)

 朝は例によって妻のインシュリンをうつ。その後はデイの支度を手伝いお見送り。

 壊れていたダイソン掃除機DC63のキャスターを、新たにヤフオクで11円で落札したDC48のキャスターに付け替える。DC48のネジは星型のT15というサイズ。それに合うネジ回しがなかったので、昨日はダイソーで探したが合うものがなく、急遽Amazonで900円のねじ回しセットをポチる。もう翌日には届くのだから便利といえば便利。作業自体は10分もかからず終了。

 もともとDC63もたしか5年前くらいにオークションで落札したもの。1万くらいだっただろうか。まあまあ使い勝手がよかったので、もうしばらくは使えそう。故障してからは以前からある日立の掃除機を使っていたけど、別にこっちでも問題はないんだけども。

 その後は現実逃避的に洗濯物を畳んだり、新たに洗濯ものを干したり。伊東家の食卓とかでやっていた簡単にTシャツを畳めるというやつをやってみたけど、まあ簡単は簡単だけどなんとなく今ひとつ。ずっとお店とかで畳んでるやり方でやっていたのだけど、そっちの方がコンパクトになるような気がする。ということで伊東家の食卓は終了。

 やることがなくなったので、仕方なく本来はこれを早く片付けなくていけないという中国美術のテキストの読み込みを始める。といっても10分、15分すると睡魔が襲ってきて全然集中できない。

 ようやく5章分を読み込んでから、夜はビデオ講義の視聴。

 夕飯は冷御飯があったので、オムライスを作る。妻がオムライスが大好きなので、今週はダイエット週間で夕御飯は抜くと宣言していたのに、オムライスは食べるという。「私のダイエットの邪魔ばかりしている」と宣いつつ完食している。

4月16日(火)

 妻のインシュリン注射とデイへの見送り。

 その後は洗濯しつつシャワーを浴びる。

 中国美術のテキストを少し読んでからビデオ講義の視聴。

 それから日々のレシートを貼り付けたノートから未入力分を桐というソフトに入力。2022年11月からずっと続けているけど、その合計がすでに300万をゆうに超えている。他に引き落としの分もあるし、補足してない出費も多々ある。ため息がでることばっかり。

 まあ家計簿とかは厳密にやらなくても、つけることで節約意識が働くとかそういうこともあるのだろう。

 2年前以前はまったく無頓着。レシートなんてその場で捨てることが多かった。家計簿なんてもってのほかである。でも考えてみたら会社でもすべての現金の出入金、銀行の口座の出入金、すべて記帳して日々合わせていた。そして1円の狂いもなくやっていた。まあむりやり合わせるテクニックはいろいろあったけど。

 会社では当たり前にできることが、家だとできないっていうのもなんなんだと思ったりもする。友人で一人暮らしの人で、何十年もきっちり家計簿つけている人もいる。仕事できるし、同い年だから70近いというのにいまだに現役で、割と要職についている。やっぱり出来る奴は普段から違うんだろうなと思ったり、思わなかったり。

 午後は、冬タイヤから夏タイヤへの交換に行く。最初は去年スタッドレス購入したところに電話したけれど、予約でいっぱいとか。しかたなくいつも行くガソリンスタンドに電話すると、すぐ出来るというのでそこへ。

 タイヤ交換、ガソリン満タンにして、さらに洗車もする。拭きあげていると、ボンネットに小さな傷やサビがある。まだ買って3年なのにちょっとショック。高速で小石とかがはねて当たったことが何度かあったから、多分そういうときのものだろうか。

 これってペンタッチで補修すべきだろうな、やっぱり。

4月17日(水)

 前夜、Netflixで『賢い医師生活』を見直していて結局徹夜。なにやっているんだろう。

 朝、階下に降りたのは8時少し前。妻のインシュリンをうち、前夜用意しておいた、ビン、缶、他プラのゴミを出しに行く。それから妻のデイの支度を手伝う。

 妻は折り紙をやっていたせいか、盛大にソファやこたつの上にお店を広げた状態。とにかく急かして支度をする。

 9時半頃にデイの送迎。水曜日は遅く来る。見送ってからようやく睡眠をとる。起きたのは午後1時くらい。それから中国美術のテキスト読み。

 まだノートをとってはいないけれど、とにかく知らない人名、地名、用語などが多数ある。中国表記のほとんど外字扱いのようなものが多い。

 ノートはOne noteを使っているけれど、単語の登録のオンパレードになるのが必須な感じ。仕方なくネットで調べてはコピーして、IMEの単語登録の作業をする。

 馬王堆漢墓(まおうたい)、形魄(けいはく)、木槨墓(もっかくぼ)、崖洞墓(がいとうぼ)、帛画(はくが)、画像塼(がぞうせん)、明器(めいき)、揺銭樹(ようせんじゅ)、説唱俑(せっしょうよう)、貯貝器(ちょばいき)、司馬炎(しばえん)、九品官人法(きゅうひんかんじんほう)、古画品録(こがひんろく)、気韻生動(きいんせいどう)、女史箴図巻(じょししんずかん)、骨法用筆(こっぽうようひつ)、随類賦彩(ずいるいふさい)、顧愷之(こがいし)、陸探微(りくたんび)、張僧繇(ちょうそうよう)、勧戒画(かんかいが)、王義之(おうぎし)、蘭亭序(らんていじょ)、婁睿墓(ろうえいぼ)、古越磁(こえつじ)、神亭壺(しんていこ)、洛神賦図巻(らくしんふずかん)、宗炳(そうへい)、仏図澄(ぶっとちょう)、鳩摩羅什(くまらじゅう)、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)、雲岡石窟(うんこうせっくつ)、麦積山(ばくせきさん)、賓陽中洞(ひんようちゅうどう)、鮮卑族(せんぴぞく)、裳懸座(もかけざ)、戴逵(たいき)、戴顒(たいぎょう)、張僧繇(ちょうそうよう)、智顗(ちぎ)、玄奘(げんじょう)、義浄(ぎじょう)、盧舎那仏(るしゃなぶつ)、善無畏(ぜんむい)、金剛智(こんごうち)、不空(ふくう)、吐蕃(とばん)、展子虔(てんしけん)、閻立本(えんりっぽん)、尉遅乙僧(うっちおっそう)、呉道玄(ごどうげん)、李思訓(りしくん)、江帆楼閣図(こうはんろうかくず)、永泰公(えいたいこう)、懿徳(いとく)、窖蔵(こうぞう)

・・・・・・続く